その研究室に入ろうと思ったのは、知りたいことがあったから。
 ここで学び、様々な知識を得るのだと、研究室の入口を希望に満ち溢れた目で見つめる。


 大きく息を吸って吐いて、心拍を少し落ち着けてから扉を叩く。
 一秒、二秒……秒針が次の数字を示そうとしても、向こうからは何も反応が返ってこない。

 擦りガラスから中の明かりが漏れているので、誰もいないということはなさそうだが。電気を点けたまま、留守にしているのかもしれない。

 もう一度ノックをし、反応がないことを確認してから、恐る恐るドアノブに手をかける。
 ガチャと小気味の良い音を立てて、扉が開く。

 鍵はかかっていなかった。不用心だな、と苦笑をする。
「失礼します」


 誰もいないだろうと決めていたが、習慣的に挨拶をする。
 しかし、その考えとは裏腹に、扉を開くと部屋の真ん中にある机と椅子を陣取って本を読んでいる人がいた。誰もいないと思っていただけに、不意打ちを食らい驚く。

 その驚かせた本人は扉が開いたことに気付いているのかいないのか、本に目をやったままだ。
 研究生だろうか。ここで本を読んでいるということは、十中八九そうだろう。


「あ……えっと、今日からこの研究室に入ることになったのですが、ここで教授を待っててもいいですか?」

 研究生らしき人物は、本に顔を向けたまま目だけを動かしてこっちを見たが、すぐに視線を本に戻す。それから、よく観察していないと気付かない程度に小さく頷く。

 一言も喋らず、こちらを見ようともさえしないなんて失礼な人だと思ったが、これからこの人と一緒に学んでいくのだと思い直す。
 少し居心地悪そうに扉の近くでたたずんでいたが、話かけてみようと決める。

「この研究室に入って長いんですか?」
「……それを訊いてどうするの?」
 彼は本から目を離さずに、静かに答える。何と答えるべきか迷っているうちに沈黙が流れる。

 それでも戸惑っている様子を見せずに、愛想良く話しかける。
「あの、何の本を読んでいるんですか?」
「読んでいる本が何であったって、君の未来構成に影響はしないじゃない。
それとも君は、他人と慣れ合うためにここに来たの?」

 彼は本に目をやったまま言う。見下されたような答えに、戸惑いを通り越して少しむっとする。

「馴れ合いの末に何を求めるの?友情や愛、喜び?分け合わないと生きていけないの?僕は一人で生きていけると思うほど愚かではないけれど、他人と馴れ合う意味が分からない」
「馴れ合うというか、他人と関わることで得るものは大きいと思う。それに、嬉しいことは分け合った方がいいと思うけど」

 普段、温厚な人間だと言われるが、いつもにこにこしているだけではない。腹立たしいというのもあり、つい反論をしてしまう。
 彼はまだ本から目を離さず、文字を追うように目が動いている。話をしながらだというのに、部屋に入ってきたときから読む速度が変わっていないことに気付いた。

「……君は博愛主義なの?偽りの世界で生き、言葉という鎖で互いを縛り支配する種類の人間なんだね」

 正直、意味が分からない。
 愛想良く振る舞い、相手をするのはもう止めたい。さじがあったら、すでに投げている。
 最後に一つだけ、気になったことを訊いてみようと思った。

「あなたは人と関わろうとしたことがないのですか?」
「……。あるよ」

 ここで初めて、本の文字を追う彼の目の動きが止まった。どこか遠い所を見つめるかのように、虚ろになる。

「あるけれど……蔑み疎まれ、憐れみの視線を向ける偽善者だらけの世界と付き合うのが嫌になった。こぞって不幸だとか可哀想だとか言うけれど、本当の幸せって何?皆と同じということが幸せなの?
周りと同じことをして、誰かに認めてもらうことが幸せだというのなら、僕は幸せなんかいらない」

 虚ろな目の中に、強い決意が見える。
 これが彼の抱えている本音だと気付く。過去に何があったかは知らないけれど、何かが彼をねじ曲げてしまったのかもしれない。

「幸せの定義なんて、その人それぞれだと思うけど。周りがどう言おうが、今が楽しいと思うのなら、それは一つの幸せに繋がると思う」


 重く長い沈黙が流れる。
 今まですぐに切り返してきたのに、何かまずいことを言っただろうかと不安になる。
 彼は身じろぎ一つせずに固まったまま、何かを考えているかのように沈黙を守る。それから急に顔を上げ、初めてこちらを向く。

 真っ正面から見た彼は女性的な顔立ちをしており、声を聞いていなかったら性別が分からなかったかもしれない。
 じっと見つめられ、一種の恥ずかしさを感じて心拍数が一気に跳ね上がった。

「僕は今、楽しいと思った。なら、君といることは幸せに繋がるのかもしれない。
気に入った、君の名前は?」
「恭一。菅沼恭一だ」
「キョーイチ?」
彼は可愛らしく小首を傾げる。

 椅子から立ち上がり、音も少なく歩み寄る。はっと気付くと目の前に彼の顔があった。
 心臓はこれまでにないくらいの速さで、血液を全身に送り出している。
そんなことには知ってか知らずか構いもせず、彼は手を差し出し、握手を求める。


「よろしく、キョーイチ」



それは唯一、彼が他人に向けた好奇心
(a Lonely logic)



2010,8,12
二人がまだ学生だったころ。ちなみに、この研究室にはもう一人います。
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