証明論理
目で見えないもの、触れられないものを信じるなんてどうかしてるわ。
「ね、そうでしょう?」
なにやら妙に厳つい本を片手に、そう言ってカラカラと笑ったのは彼女。
そう、ですね。
なんてなにくわぬ顔で応えてみたものの、内心焦っていたのは私。
少し前の私なら、その言葉に同意するのも容易かったはずなのだが、今はそうもいかない。
人はこうも変わるものなのか。
今の私は、その形無きものの確かな存在をすっかり信じきってしまっている。
それどころか、いつの間にか抱え込んだそれに苦しみすら覚えているのだ。
「見えないものは存在しないし、触れられないものはあるはずないもの。」
軽く目を閉じてコーヒーの香りを楽しみながら淡々と自説を展開する彼女は、科学班所属の優秀な科学者。
パイを切り分けながら口を噤んだ私は、中央庁所属の煙たいよそ者だった。
「ならば“空気”は?存在しないのでしょうか。」
子供の屁理屈のような私の言葉に彼女は一瞬だけ眉をよせたが、またすぐに笑ってみせた。
「空気は触れることができるわ、ハワード=リンク監査官。
野原で風を感じたり、袋や筒に詰めてみたりすればいい。」
なるほど。
小さく呟いて、パイを切り分ける作業に専念する振りをする。
だが、彼女に見えない私の内側はそう平穏無事なものではなかった。
人の五感というものの精度はあまりに低い。
何をもって、彼女にそれを示すべきか。
暗中模索、まとまらない頭の中では試行錯誤。
私はこの形無きものの存在を、どうしても彼女に信じて欲しかった。
パイをのせた皿をゆっくりと差し出すのは私。
ありがとう、ハワード=リンク監査官。
薄く目を開き、綺麗に微笑むのは彼女。
「見えないもの、触れられないものの存在を証明するのは難しい。
それでも、それは確かにあるのです。」
謎かけのような私の言葉。
しかしそれで十分だった。
「そうね、ハワード。
証明はじめとしては、良い足がかりだわ。
でも、成り立たせるにはまだあまりに証拠が足りない。」
悪戯っぽく光る彼女の瞳。
そこに映る私も、いつの間にか笑みを浮かべていた。
「生涯をかけて証明してみせましょう。
しかし、それには貴女が不可欠です。」
目に見えぬとも深く、振れられずとも絶えないこの感情。
そのすべてをほんの短い言葉と小さな銀の指輪の輝きに託し、金のフォークと共に添えた。
はにかみながらも左手を差し出すのは彼女。
そっとその手を握り、薬指に輝きを与えるのは私の役目。
この指輪も、この言葉も、私のこの想いの全てを示すにはあまりにも役不足だ。
それに、一生かかってもこの形なき感情の存在は、証明することなど到底不可能なのかもしれない。
以上より、解なし。
よって、不適。
証明不可能。
頭に浮かぶそんな言葉には全て無視を決め込んで、私は彼女に解を続けるのだった。
「貴女を愛しています、X。」