恋に焦がれて鳴く蝉






「おかえり」

 誰もいないはずの部屋の中からおかえり、と声がしたら誰でも驚くはずだ。でもナマエは違った。来てたの?と声のトーンを変えずに平然とパンプスを脱いでいた。

「これ。渡しにきた」
「え?なにこれ。あぁ出張でも行ってたの?」
「そ。一昨日から行ってて。そのお土産」
「ふーん…わざわざありがとう」

 社会人になりお互い一人暮らしを始めた。そして自然と交換された、互いの家の合鍵。今日もそれを使って出張から帰ってきたその足でナマエの家の玄関を開けさせてもらった。時間帯的にそろそろ帰ってくる頃かなと思っていたらドンピシャだった。

「洗濯機使っていい?」
「いいけど自分で干してよ?」
「わーってる…ってお前洗濯したの干してねぇじゃん!」
「あー…朝洗濯機回したけど干す時間なくて」
「シワになるだろ!干す時間ねぇなら回すなよ」

 ナマエは昔からズボラなところがある、オレと違って。職業柄どうしても衣服の扱いには口煩いところがあると自覚はしている。特に一人暮らしを始めてからは、このズボラなナマエに対しては注意することが多くなった。洗濯機の中の衣類を一旦全てカゴに出して一つ一つ伸ばしながらハンガーに掛けていく。

「外干していい?寝る前にはちゃんと部屋ん中入れろよ」
「うん。この暑さだし夜までに乾くかもね」
「だな。…ってオイナマエ!ブラはちゃんとネットに入れねぇと型崩れするって前も言っただろ」
「なんか仕事で疲れちゃっててさ…お風呂入る前そんなことする余裕なかった」

 ベッドに倒れながらそう言う彼女に返す言葉はなかった。女は大変だ。男より衣服の扱いに気を遣わなくちゃいけないことが多いから、疲れてりゃそれが怠くなる気持ちは分かる。でも前も注意したことだから直してほしいところなんだが。

 18時近いと言うのにまだ辺りは明るく、日が落ちる気配がなかった。ベランダに立っていると嫌でも汗が噴き出してくる。今年もこの季節がやってきた。ナマエと過ごすのはもう何度目になるか分からない、夏が来た。

「隆ぃ」
「んー?」
「冷やし中華食べたい。作って。材料なら私が買ってくるから」
「あーごめん。今から出かけるんだ」

 ナマエの洗濯物を干し終えようやく自分の出張で溜まった洗濯物を洗い始めた。いま回したって出掛けるまでに干すことは無理なんだけど、まぁナマエに頼めば干してくれると信じて。

「えーそうなの?なに、飲み会?」
「そう飲み会」
「…という名の?」
「…合コン。人数合わせのな」
「えーいいなぁ。モテ男だから合コンなんて絶対行くだけで楽しいじゃん」
「んなことねぇよ」

 ナマエとオレの名前のつけられない関係は未だ継続中だった。高3の夏に勇気を出して言ってみた発言も虚しく、オレ達は結局あの日のまま今日を迎えている。オレはナマエの彼氏じゃないしナマエはオレの彼女じゃない。なのに合鍵は持っているし相変わらずやることはやっていた。でもその頻度は依然として低かった。学生の頃と違って家族がいない時を狙ってどちらかの家に行く、なんてことはもうしなくてもいいんだから会える日は圧倒的に増えたはずなのに、オレ達は気まぐれで会って気まぐれで体を重ねるようになっていた。だから合コンに行こうがデートしようが、何も口出しなんてしない。相変わらずこんな歪な関係を続けていた。

「ナマエ、洗濯終わったら干しておいて」
「いいけど…いつ取りに来るの?」
「そのうち来るから畳んでおいて」
「もーぉ…私はきみのお母さんじゃないんですけど」
「さっきお前の洗濯物干してやっただろ」

 洗面台の前で軽く髪を整え直し、携帯と財布と鍵だけポケットに入れた。あと頼むなとナマエに声をかけてから玄関で靴を履くと、隆のバーカと返されたけど気にしない。ナマエはあんなこと言ってきたって、いつもオレが頼んだことはしっかりやってくれる奴だから。



 人数合わせの為に頼まれて行った合コンはやはり楽しくもなんともなかった。彼女いたことないと言えば嘘っぽいと言われるし、逆に興味持たれてそのままホテルに誘い出す女もいた。正直に彼女はいたことないけどセックスは定期的にしてると言えば、単なる遊び人だと思われたのか「私もそのうちの一人にして」なんて懇願されてウンザリした。そのうちの一人じゃねぇよ。一人しかいねぇんだよ、最初から。

 やはり合コンなんて行くもんじゃない。もしかしたら好きになれる女と出会えるかもと淡い期待を抱いていたけど、やっぱり無理だった。なんか違う。なんかしっくりこない。アイツじゃないと一緒に居ても落ち着かない気しかしなかった。そう思いながらナマエのマンションに帰った。洗濯物はそのうち取りに来るとか言ったくせに、その数時間後に来るとはまさかナマエも思っていないだろう。でも今は無性にアイツに会いたかったし、抱きたかった。

「わざわざありがとう」
「全然っすよ」

 聞き慣れた声と聞き慣れない声の会話。顔を上げるとマンションの前でナマエと見知らぬスーツ姿の男が立っていた。オレの知らない男がオレの知らない間にナマエを訪ねに来ている。しかもナマエは部屋着のダボついたTシャツにショートパンツなんていう無防備な姿。ナマエのあんな姿を見ている男が存在しているということに無性に腹が立った。

「ナマエ!」
「…え!?どうしたの?合コンは、」
「ナマエに何の用ですか?」

 驚くナマエと状況が読めないという顔をした男の間に立った。伊達に東卍の隊長やってたわけじゃねぇ。少し眉間に皺を寄せて目を細めて威嚇するような口調で話せば、大体の男はたじろぐものだった。でもこの男は例外だった。驚いた顔を一瞬で引っ込め、こんばんはと頭を下げて挨拶してきやがった。

「すいません突然。自分ミョウジさんの同じ会社の者で、忘れ物届けに来ただけなんすよ」
「…それはわざわざどうも」
「彼氏さんですか?」
「そうですが」
「へぇ彼氏いたんだ…知らなかった」

 じゃあミョウジさんまた会社で。そう言って男はオレにも会釈して帰って行った。忘れ物を届けにわざわざ自宅マンションまで、ね…。最寄駅とかじゃなくマンションまで。どう考えたって下心の塊だったと思う。

「お前忘れ物ってなんだったの?」
「水筒」
「は…?水筒だけ?」
「うん。私がいつもルイボスティー入れてくるの彼知ってて。それがないと朝気分が乗らないって言ってましたよねって…」

 業務上欠かせない何かかと思いきや、水筒って…。もう絶対クロじゃん。そんなことにも気づかねぇのか、そんな格好で出てくるナマエにも腹が立った。

「ねぇ隆合コンは?」
「終わったよ」
「いい子いなかったの?」
「いねぇよ」
「そっかぁー…残念だったね」

 分かってるのか、分かってないのか。ナマエのこの言い方は一体なんなんだ。オレがいい子と出会えばお前は満足なのか?オレとの関係が終われるって喜ぶのか?違うだろ。絶対ぇ違うだろ。嫌だったらこんな関係十年以上続けているわけねぇだろ。

「てかこんな時だけ彼氏面しないでよ…月曜会社行ったら周りに色々聞かれそうなんだけど」
「いいじゃん話せば」
「え?」
「小6からずっと付き合ってる彼氏がいるって言えばいいじゃん」
「隆…?」
「もういい加減いいだろ。これで付き合ってないとか、どう考えてもおかしいだろ」

 ナマエの小さな肩を抱いて唇を塞いだ。余計な言葉は今は聞きたくない。この関係が壊れるのを恐れてずっとずっと言えなかったけどもう我慢の限界だ。合コン行ったっていい子になんて巡り会えない。ナマエが他の男といるのを見るだけで苛立つ。そんなのもう、理由なんて一つだ。

「…好きだよ、ナマエ」

 今まで一度も吐いたことのなかったこの言葉。どうかそのまま夏の夜空に消えていかないでくれ。








×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -