誘惑はいつでも甘くて

お風呂あがりにスマホを見て、思わず「あー…」と声が漏れた。そんな私の様子に気づいて、洗濯物を畳んでいた三ツ谷くんは「どした?」と声をかけてきた。どうでもいけどこの男、この間のデートの前に女の子(元カノ?)が詰め寄ってきた事件以来また積極的に家事をしてくれるようになった。私の機嫌取りかな。

「ごめん三ツ谷くん、あのさ…急だけど明日お母さんがうちに泊まりに来るとか言い出して」
「まじ?」
「うん、だから…」
「おっけ、じゃあ明日はどこか泊まってくるよ」

どこかってどこだよ。
それが私の脳内に一瞬で走った台詞だった。しかも急にこんなこと言って申し訳ないなぁと思ったけど、即答で「おっけ」って。もう確実に他に泊まるところのアテがあるやつでしょ。

他の女の家に泊まらないで、と言いたいけど面倒な女だと思われないだろうか…。いやでも私のこの人の彼女なんだよね?それって三ツ谷くんが言い出したことなんだよね?だったら言っても……


「って、なに?」
「んー。明日名前ちゃんに会えないなら今日のうちにいっぱい触っておこうと思って」
「いや、ちょっと待って…手!その手!冷たい!」
「あーごめん。名前ちゃんの太腿で温めてさせて?」
「無理!冷たい!」
「大丈夫、すぐ温かくなっから」

私の声にはお構いなしに服の中に入ってくる三ツ谷くんの手。初めてエッチした時も手が冷たいって言ったらそのときは三ツ谷くんの手が温まるまで服の中に手は入れてこなかったのになぁ。今は冷たい手でも遠慮なく私の体を触ってくる。前みたいな優しい気遣いはなくなったんだなって、少し目尻に涙が溜まった。





「んじゃ、また明日ね。夜にはもうお母さんいない?」
「うん。夕方ごろ帰るって」
「じゃあ夜にはこっち戻るから」

いつもより少しだけ大きめの鞄に翌日用の服だけ詰め込んだ三ツ谷くん。……なんで、歯ブラシとかパジャマは詰め込まないのかな?

「ねぇ…誰んち泊まりに行くの?」
「あのアホな不動産屋の友達んち」
「ふーん…どこ住んでるのその人」
「渋谷区。だからここからそんな遠くねぇよ?」
「パジャマ、とかは?」
「友達に借りるよ。そいつ横にでけぇから何借りても入るし。歯ブラシとかも面倒だから買っていく」
「そう…。あの、LINEするから、返信してね」
「勿論。名前ちゃんも返してね?」
「当たり前じゃん!」
「ん。オレだって当たり前だよ」

嘘つけ。散々未読スルーしてきたじゃん!前科ありまくりじゃん!三ツ谷くんなんて嘘つきじゃん!
そう思っても、そう声に出しても、結局私はここで彼の帰りを待つしかないのか…。そう思うとまた涙が出そうになった。






久々に私の顔を見に来た母と一晩過ごした翌日、最寄駅近くのおすすめのイタリアンでランチをしてから改札前まで母を送った。次会えるのはお正月かしらね、と聞かれ、うんと頷いてから母を見送ろうとした時、改札から出てくる見覚えのある影に目が奪われた。

「あ、みっ…」

少し声を出しただけなのに、三ツ谷くんはこっちに気づき、そして母の姿を見てにこりと笑って来た。

「名前ちゃん。もしかしてこちらがお母さん?」
「あ、うん、そうです…」
「はじめまして。三ツ谷隆と言います」

礼儀正しくペコリとお辞儀をし、得意のタレ目をより垂れさせる優しい笑顔を見せた。母は目を丸くして私を見て「もしかして…?」と小声で聞いて来た。

「名前ちゃんから僕のこと聞いてますか?」
「え、えーと…ごめんなさい、何も」
「そうでしたか。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。改めまして、名前ちゃんとお付き合いさせて頂いてます三ツ谷です」
「…え?うちの娘とお付き合いされてるんです?」
「はい」
「…え?そうなの?名前?」

え、いや、「え…そうなの?」って私も聞きたいぐらいなんですけど。
目が泳ぐ私を見て2人は各々困った顔をしていた。ど、どうしよう…どう切り抜ければ……

「名前ちゃん、オレと付き合ってるって言わなかったの?」
「ん、んー…えーっとそう、ね。ちょっと恥ずかしくなって言えなかったというか…」
「そうなの?相変わらず恥ずかしがり屋だね。まぁそんなとこも可愛いんだけど」

やめて。やめてその三ツ谷節。お願いだからお母さんの前では封印して!!

「あの、ちゃんと交際はしていますんで僕たち」
「あら、そうなの?」
「はい。ただまだ交際を初めて日も浅いですし、僕も長く彼女に片想いしていたのでまだ付き合えてる実感が湧かないというか…」
「まぁ、あなたが名前に片想いを?」
「はい。名前ちゃん、こんなに可愛らしいのにすごく真面目で自立心もあって…だから僕の方に向いてくれるのも時間かかったんです」
「そうなのよ〜!この子昔から変に真面目なところがあって」
「でもそこが名前ちゃんのいいところですよね。きっとご両親もきちんとしている方なんだろうなって、僕前から思ってました」

お母さんは「まぁそんなぁ〜」と嬉しそうに笑っていた。

…いやこの男マジでなに!?なんで打ち合わせも何もしてないのにこんなスラスラと嘘吐けるの!?片想い?三ツ谷くんが?私に?へぇ〜!他の女と会いつつも私に片想い?いやほんっっとどの口が言ってんの!?

三ツ谷くんと暫く談笑したお母さんは、嬉しそうな顔をして改札の中に消えていった。まぁ…あんな嬉しそうな顔して帰ってくれたならいいか……嘘も方便とか言うし…


「…帰って来るの夜なんじゃなかったの」
「うん。でも急に名前ちゃんに会いたくなっちゃって」
「お母さんがまだいるであろう時間に来てどうするつもりだったのよ」
「ちゃんと挨拶するつもりだったよ?どう?オレちゃんとできてたっしょ?」
「うん。嘘が本当にお上手でビックリした」

スタスタと歩く私を追いかけるように隣に歩いて来た三ツ谷くん。そんな彼を見上げると…あれ、なんかほっぺ赤くない?

「どうしたの?ここ」
「バレたか。お母さんも気づいてたかな」
「いや、あの感じは気づいてないかと…どうしたの?」
「あー…なんか、殴られた」
「え!?友達に?」
「うーんまぁそんな感じ」
「ケンカ?」
「まーなー…元々オレも喧嘩ばっかしてたし殴られるのは慣れてんだけどさ……あー…でも今回は応えたわ」
「何があったの?」
「…名前ちゃんがやっぱ一番可愛いし一番好きだし一番大切にしたいってこと」
「はぁ?」

いきなり何の話?よく分からないけど、なんか聞くに聞けないまま一歩前を歩く三ツ谷くんの背中を見ながら歩みを進めた。そしてその時ふと気付いた。彼が着ているグレーのカーディガンについている、長い長い一本の黒髪の存在に。

その時全て合点が行った。20センチはありそうなその髪の毛の意味も、男友達(しかも確かデブって言ってた)に殴られたにしては薄そうな頬の赤い跡も、私が一番可愛いとかいきなり言い出した意味も。

三ツ谷くん、また女の子のところに行ってたんだね。平手打ちでもされて追い出されたんだね。アホな不動産屋の友達の家なんて、嘘だったんだね。


「…名前ちゃん?」
「そんなに嘘ばっかついてて、良心痛まないの?」
「え?」
「こういう人だって分かって一緒にいるけど、流石にそろそろシンドイ」
「……」
「ねぇ、私も一発殴っていい?その女の子みたいに」

三ツ谷くんは目を大きく見開いたあと、全てを見透かしたような目をして「いいよ」と言った。だから私は赤くなってない方の頬を殴った。平手打ちじゃない。グーで殴った。こんなことするの、生まれて初めてだった。

「…ははっ、結構いてぇ」
「三ツ谷くんに捨てられてきた女の子達はもっと痛い思いしてるんじゃない?」
「かもなぁ」

私が殴った箇所を摩ったあと、三ツ谷くんは私をぎゅっと抱きしめて「ごめん」と耳元で何度も何度も謝って来た。聞き飽きたその謝罪の言葉。何度も裏切られて何度も振り回されて来た。それでも尚、私はこの人から離れたくないなんて、舐められても当然なのだ。

「オレもうちゃんとするわ。なんかもうマジ目ェ覚めた」
「どうだかねぇ」
「本当に。…名前ちゃんにだけは捨てられたくねぇから。絶対に絶対に離したくないから」

聞き飽きたような甘いセリフ。それに大して「ほんと口だけは上手いな」って思ういつもの私。何も前進していない。三ツ谷くんと出会ってもうすぐ一年が経とうとしているのに、何にも前進していない。

「名前ちゃんは…オレだけを見ててくれるよな?」

でもこんな泣きそうな目で訴えてくる三ツ谷くんを見て、都合のいいこと言ってんじゃねーよって吐き捨てることはできなかった。ただ精一杯、彼を抱きしめることしかできなかった。




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