浮かれたカシス

ガチャガチャと鍵の回る音がすると、ゴロゴロ寝転がっていた体を起こして玄関の方を向いてしまう。それはもう完全に飼い主の帰りを待っていたワンコのようである。なんとかそんな態度は出さぬように涼しげな顔で「おかえり」と言うのが、今の私には精一杯なのだ。

「ただいまー。あー今日めっちゃ外あちぃ。てか部屋も暑くない!?名前ちゃんエアコン何度にしてんのこれ」
「えっと、28℃」
「あー…暑いわそれ」

三ツ谷くんは家に入るや否や暑い暑いと言いながら着ていたTシャツを脱いだ。異性の裸にそう免疫がないわけじゃないけど、そのくっきりと割れた腹筋と細い腰は視界に入るとどうしてもドキッとしてしまう。そしてこの男は、私のそんな心情の変化すら見逃さないのだった。

「なーに見てんの名前ちゃん」
「別に見てないもん」
「いーんだよ?見たって。いくらでも」
「ねぇやめてなんか変態っぽいよ」
「おーおー変態上等だよ」

座っている私の前に立ち、その自慢の腹筋を全面的に、そしてわざとらしく見せつけてきた。いやこれ…どうすればいのよ。とりあえず「分かった分かった」と適当にあしらいながら彼のお腹を触って離れるように促すが、まぁそう簡単に離れてくれるはずもなく。むしろもっと近づかれて気づけば私は彼の腕の中でぎゅっと抱き締められていた。少し汗ばんだ素肌に、またドキっとしてしまう。


「名前ちゃん……」
「うん、なに?」
「住むところ、今日は見つからなかった」
「…あー、そっかぁ」
「友達まじで脳みそ真空パック状態だからさ、オレがバストイレ別は絶対だっつったの忘れやがって。条件に合わねえ物件ばっか並べてきやがった」
「ねぇその友達本当に大丈夫?仕事クビにならないの?」
「クビにはなんねぇなぁー。アイツこれでも自営でやってんだよ」
「とんでもない人が経営してる不動産屋さんなんだね…」
「な。笑っちまうよな。ってことでさ…本当ごめんなんだけど、もう少しだけここ住ませてもらってもいい?」
「うん…まぁ仕方ないよね」
「ごめん、本当ありがとう。今まで以上に飯作り頑張るから。あ、洗濯とかも名前ちゃんが嫌じゃなかったらするよ?」
「うん…じゃあ頼むね」
「任せて」

もう一度ぎゅうっと力を入れて抱き締められ、「名前ちゃんだいすき」と言いながら三ツ谷くんはキスをしてきた。大丈夫。きっとあと1〜2週間もすれば住むところは見つかるだろう。だから後少しだけ、三ツ谷くんとの時間を堪能したい。



三ツ谷くんは私を離すと「たまには外に食いに行こう」と珍しく誘ってきた。彼がうちに転がり込んで来てから早一週間経ったが、その間ずっとおうちご飯ばかりだった。普段自炊なんてしない私にとってはそれはとても喜ばしいことだったが、三ツ谷くんと二人で外にお出掛けするというのもまぁ…嬉しくないわけないのだ。

「名前ちゃんこの辺におすすめのとこないの?」
「あるよ色々。結構もう長く住んでるし」
「じゃあ連れてって」

どこにしよう。この時間から予約なしで入れるところとなると…あ、あの中華とかいいかな。三ツ谷くんに中華はどうかと聞けば「すげー好き!食いたい!」とまるで少年のように目を輝かせた。家にいる彼を見てるとそうガツガツ食べるイメージがなかったけど、やっぱり本当はガッツリ食べる男の子なのかな。そんな姿すら想像すると可愛く思えてしまう。


「どっち?」
「左」
「へーこっちあんま歩いたことない」
「駅とは反対方向だもんね」

三ツ谷くんは自然に私の手を取り歩き出した。外で手を繋いで歩くなんて初めて……いや、彼と出会ったあの日、ホテルまでの道のりでは手を繋いだかも。ドキドキしたよなぁ。ほんの数時間前に初めて会った男の子と手を繋いでホテルに向かうなんて、本当に初めての経験だった。きっと彼にとっては慣れた行為だったし、覚えていないんだろうけど…


「久しぶりだね。名前ちゃんと手繋いで歩くの」
「えっ?」
「初めて会った日以来じゃね?」
「そう……かもね」
「あれ、あんま覚えてねぇな?その言い方は」
「えー…うん。ごめんあんまり…」
「ひっでぇー!オレめっちゃ覚えてんのに。さては名前ちゃんオレのこと遊びだな?」
「そのセリフ、そっくりそのままキミに返すよ」
「なんだよそれー。遊び相手をわざわざメシに連れ出すわけねぇだろ」
「そうなの?」
「そうだろ。遊び相手なんてホテルか家でヤることやって終わり。そういうもんだろ?」

いや知らないよ。私遊び相手の異性なんていたことないから。そしてちょっと前までの私なら、三ツ谷くんのこういう言葉は全く信じず「はいはいどうも〜」って流していた。でもなんでだろう。もうそんな風に流せなくなってしまった。もしかして本当に私のことだけ見てくれているのかなって、期待してしまう。指を絡めて繋がれているこの手も、毎日私を抱き締めてくれるその腕も、名前ちゃんって何度も何度も呼んでくれるその声も全部、私だけのものなんじゃないかって錯覚してしまいそうだ。


「今日は日頃の感謝の気持ちを込めてオレがご馳走するね」
「とか言っていざお会計する時に財布忘れたーとか言って私に奢らせるんでしょ」
「えっなにそれ、名前ちゃん的にオレってそんなクズ男なの?」
「クズでしょ」
「うわ、グサっときた」
「自覚なし?」
「ねぇよ。だって絶対ぇクズじゃねぇもんオレ。少なくとも絶対名前ちゃんに対してだけは」
「……」
「名前ちゃんさぁ、男がご馳走してやるって言ってる時は可愛くありがとう〜って言って甘えとけよ。そういう可愛い名前ちゃんがオレは好きだよ」
「…うん」
「あとオレまじでクズじゃねぇからな?」
「…うん、ごめん、嫌な言い方だったよね」
「いーよ。素直に謝ってくれたから許す」

次の瞬間、私は三ツ谷くんの腕を引っ張り、少し背伸びをして彼の唇を奪っていた。ほぼ無意識的にしてしまった自分のその行動に驚きつつも、もう自分は後戻りできないほど彼に堕ちてしまっているんだと自覚したのだった。



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