「…ここで降ろして下さい」
私のその一声で、タクシーの運転手は車を止めた。
三ツ谷先生が家まで送ると言い、私の自宅の場所を聞いてきたから答えると「そのくらいの距離ならタクシー乗っちゃおう」と言った。10代でまだ学生の私にはない発想だ。どんな場所でも公共交通機関を使うのが当たり前なのに、大人で社会人な先生はこうやって簡単にタクシーを捕まえる。やだな、また先生との差を感じてしまう。
自宅近くの公園で止まったタクシー。降りようとする時「ここは払わせて」と三ツ谷先生は財布を出そうとする私を制した。降りてからお礼を伝えると「オレ大人だから」ってちょっと冗談ぽく笑ってたけど、そうやって大人と子供の線引きみたいの、やめてほしいのにな。
「で、家はどっち?」 「…まだ帰りたくない」 「なんで?こんな時間だし外いるの怖くね?」 「……」 「ちょっと公園で休むか」
まだ先生と居るためのいい言い訳が思いつかず黙りこくっていると、先生は私が待ち望んでいた展開へと導いてくれた。滑り台とブランコくらいしかない小さな公園。そこの隅にあるベンチに一緒に腰掛けた。
「一本吸っていい?」 「あ、どうぞ」 「サンキュ」 「先生って実は結構吸うんですね?」 「あー…ちょっとなぁ最近本数増えてきちゃって。本格的なスモーカーにはなりたくねぇんだけど」 「本数増えたって…仕事のストレスとかでですか?」 「先週さぁー彼女にフラれたんだ」
その言葉を聞いて「えっ」とか「うそっ」とか、驚きの声が出なかったのはなんでだろう。ただ言葉が喉につっかえたような、そんな感覚だけが走った。
「…私と先生って、やっぱ色々境遇似てるかも」 「ん?」 「私も数日前、彼氏にフラれたんです」
ポトリ、と隣から音がした。そして私の視界に入ってきたのは三ツ谷先生の指から落ちた煙草。さほど短くなっていなくて、吸う余地がまだまだ残っているそれは砂の上で静かに転がっていた。
「…先生?どうしました?」 「、えっ?あ、ごめん…」 「タバコが…」 「あ!?やべっ」
慌てて落ちたタバコを拾い上げて携帯灰皿に押しつけて火を消していた。そこらに生えてる雑草に火が移ったら一大事だっただろう。先生は「わりー…」なんて呟きながら新しい煙草を出していた。
「…彼氏いたんだ?」 「あ、はい」 「ふーん…」
カチカチっとライターで火をつけようとするも、オイル切れが近いのかなかなか付かない。先生は珍しくイライラしたのか「くそっ」と言いながらライターを乱暴にカチカチし続けた。なんとか煙草に火をつけられたようで、その様子を見て私もホッとした。「くそっ」って言った先生が、いつもと違って少し怖かったから。
「なんで別れたの?」 「えーそれ聞きます?」 「うん聞いちゃう」 「じゃあ先生も教えてください」 「お前が言ったらな」 「えー…」 「なに?そんなひどいフラれ方したの?」
ふーっと煙を口から吐きながら三ツ谷先生は聞いてきた。あんまり好きじゃなかった煙草も、先生が吸っている姿を見ているとかっこ良く見えるから悪いもんじゃないなぁと思えてしまう不思議。私に煙がかからないように横を向いて煙を吐いてくれるところとか、そういうさり気ない優しさがやっぱり、すき。
「ひどいフラれ方じゃないですよ。むしろ私の方がひどかったんだと思います」 「ん?何したの彼氏に」 「…他の男のこと考えてるだろって言われて、私何も言い返さなくて。そしたら別れようって言われたんです」 「……そっか」
先生は私の言葉の意味を理解したに違いない。「そっか」のその一言の言い方で私は分かった。次にどんな話題を振ればいいのか分からず、先生も先生で口を開いてくれず、しばらく沈黙が走った。だいぶ肌寒くなった秋の夜。今日は一日曇りだったから月も出ていない。本当に薄暗く音のない公園の中で、時々三ツ谷先生が煙草の煙を吐く音だけが走る。
「先生…なんか喋って下さいよ」 「え?あ、わり…。えーっと、じゃあ次はオレの番だな、フラれ話」 「はい」 「じゃあぶっちゃけるよ?」 「はい」 「ビビるなよ?」 「えっ?はい…」 「オレ昔、都内で結構デカくて有名な暴走族入ってたんだ。隠してたわけじゃないけど彼女にその話はしてなくて、でもたまたまバレて、そんな人とは将来を考えられないって言われて、フラれた」 「えっ暴走族?」 「そー。中坊ときな?それ以降はふっつーだよ?不良の世界からは足洗ったから」 「それが原因で彼女さんに嫌われたんですか?」 「まぁそうだね。何よりずっと隠してたのが気に食わなかったみたい。聞かれなかったから言わなかっただけなんだけど」 「普通聞きませんよそんなこと」 「ははっ、確かにな」
先生は笑っていたけど、どこか悲しそうな悔しそうな、そんな表情に見えた。私は先生の彼女さんが信じられなかった。そんな10年近く前のことを知ったぐらいで先生を手放すなんて信じられない。私だったら絶対にそんなことしないのに。
「ビビった?」 「そんなに」 「まじ?」 「だって先生、ヤンチャしてた感は今でも滲み出てますもん。それにさっきあのOB殴り飛ばしてたし、むしろ納得がいくと言うか」 「肝座ってんなぁミョウジさん。オレ創設メンバーだったし結構その界隈では名が知られてたんだぜ?」 「ねぇその過去のヤンチャしてたことを武勇伝っぽく語らないで下さい。そういうとこオッサンぽいですよ」 「は?マジで?」
三ツ谷先生は本当にショックを受けたような顔をして「やべー…気をつけるわ」と言った。さっきまでドヤ顔で創設メンバーだなんだって言ってたくせに、何この変わり様。思わず笑ってしまうと「笑うんじゃねぇよ」っておでこを突かれた。
「痛っ!ちょっと痛かったですよ今の。元暴走族幹部は手加減ないですね〜」 「おいお前さっきからバカにしてんな?」 「してませんよ。またちょっと先生のこと知れてテンション上がっちゃっただけです。気に障ったならごめんなさい」 「別に…謝んなくていいよ」 「先生が暴走族ってそこまで不思議じゃないけど、でも裁縫得意で手芸部でいまデザイナーっていうのがなんか不思議です」 「それはほんっとーによく言われたわ。でもさ、オレがトップクとか仕立ててたんだぜ?」 「トップク?」
三ツ谷先生は生き生きした顔でトーマンという暴走族のチームに入ってたことを話してくれた。側から見たら過去の栄光に浸ってる元ヤンキーなんだろうけど、それでも私は昔の先生のことを知れるのが嬉しかったから興味津々で話を聞いた。三ツ谷先生がこんなふうに自分のことをたくさん喋ってくれることってすごーく貴重な気がする。もっと、もっとたくさん聞きたい。先生のこと、もっとたくさん知りたい。
「楽しかったんですね、トーマンにいた頃」 「まぁなんだかんだね」 「いいなぁ。私もトーマン時代の三ツ谷先生に会ってみたかった」 「怖かったかもよ?」 「そんなはずないです。三ツ谷先生は昔からこうやって優しくて面倒見いい人だったんですって絶対」 「オレに夢見過ぎだろ」 「夢なんて見てませんよ。私はいつも、目の前にいる先生のことしか見てません」
あ、やばい。また変なこと言ってしまった。 でも何故だろう、冷や汗とか出てこない。心も焦らない。それはきっともう先生に私の気持ちは前から筒抜けだって分かってるからだからなのだろう。でも先生を困らせることだけはしたくなかった。だから一応謝っておく。
「すみません変なこと言って…忘れてください」 「なぁ…なんでさ、他の男と付き合ったの?」 「え?」 「オレのこと好きなんじゃなかったの?」
そうです、けど…。って言ったつもりだったのに、驚きのあまりか声に出ていなかった。先生からそんなこと言われるなんて思っていなかった。だっていつもそこは触れないようにしてる感じがあったから。なのに今、どうして?
「…すきですよ、先生」 「うん」 「一番、誰よりもすきです、先生」 「うん…知ってる」 「でも私も…他の友達たちみたいに彼氏作って年相応に青春したかったんです。だから、彼には失礼だったけど…好きだって言ってくれたから付き合ってみたんです」 「そっか…彼氏いて、楽しかった?」 「うん…楽しくは、ありました」 「オレといるより?」 「それは…ないです」
先生は下を向いてそっと笑いながらまた「そっか」と言った。何をそんな、分かりきってるようなことを聞いてくるんだろう。でもどうしよう、すごくドキドキする。先生が手芸部に来てくれてた時みたいに、ドキドキする。部活の後に先生と二人で喋っていた頃が蘇るような感覚がする。
「じゃあ…付き合う?」
私の耳に響いてきた先生のその声は、夢が現実か。酔っ払ってるわけでも眠気がひどいわけでもないのに、私の脳はそれが判別できなかった。
夢なら醒めないで
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