「いやだからね、ナマエちゃん悪くないって。運が悪かった!だからもうあんな男のことは忘れるべきなんだって」
そう言って私の肩を掴んでくるこの男性を、私は冷めた目で見ることしかできなかった。
季節の移ろいは驚くほど早い。気づけば秋。学祭シーズンに突入した。入っているインカレサークルで焼きそば屋をするからとここ最近はサークルに顔を出すことが多かった。そんな中、学祭本番に顔を出してきたこの男性は去年卒業したOBらしい。
夏休みに入る直前、私は人生初の彼氏ができた。サークルの一つ上の人で、まあ会話は弾むし容姿も生理的に無理な範囲ではなかったので付き合ってみた。けど数日前フラれた。理由は「ナマエはオレのこと好きじゃない。他の男のこと考えてるだろ」だった。
その時否定も言い返すこともしなかった私は心底ひどい女だと思う。何も言わない、それってつまり肯定しているようなもんだから。彼は何も悪くない。本気で向き合わなかった私が100パーセント悪い。
なのにフラれた可哀想な女というレッテルを勝手に貼って勝手に慰めてくるこのOBの男(初対面)は一体なんなんだ。学祭の打ち上げでOBの人達も含めて飲み会をしたのだけど、お開きになった後も私はこの人に捕まっている。
「あのー、そろそろ帰りましょうよ」 「おっナマエちゃんオレと帰んの〜?」 「駅までは帰りますよ」 「ねぇ、駅前の居酒屋でもう一杯飲んでいかない?まだまだ愚痴りたいだろ?」 「私なんも愚痴ってないですよね?ただ別れたって話しただけで…」 「ぱーっと飲んでさ、元カレのことは忘れようぜ!」 「…寒いんでもう帰ります」
このクソ酔っ払いが、と思いながら肩を掴まれていた手を振り払った。一応サークルのOBだから下手な態度はとれない。みんな結構飲んで酔ってたからか私がこの人に捕まってみんなと帰れなかったことにも気づいてもらえなかったし、もうほんと最悪。
「おい待てよ〜、置いてくなよ」
今度は肩に手ではなく腕を回され捕まった。…やめてほしい、なにこの距離。酒臭さとよく分からない香水の匂いが混じって気持ちが悪いことこの上ない。
「先輩、セクハラです」 「おっ生意気言うじゃーん」 「もう離してください!」 「なぁいい加減わかれよ?慰めてやるって言ってんだからさ、ここは先輩の好意を有り難く受け取れよ?」
いやあんたにあるのは好意じゃなくって下心だろ。って言えればどんなに楽か。こんな時もっと気が強かったらなと思う。長女故か我慢して遠慮して言えない。とにかく力尽くでその腕を外そうとするも、逆にもっと力を入れられて離れない。しかもあろうことか、男の手のひらが私の胸に伸びてきて触れた。…え、偶然?と思ったがもう一度触れられてきたことで確信に変わった。こいつ、わざとだ。
「っ、ちょっと…!」 「ミョウジさん?」
ハッとして声のした方に顔を向けると、数ヶ月ぶりに見る三ツ谷先生の姿があった。煙草とライターを持って居酒屋の外にいるところを見ると、吸うために飲み会を一時的に抜けてきたところだろうか。
「は…?なに、お前何してんの?明らか嫌がってんだろ」
聞いたことないような低い声で、先生はこっちに近づいてきた。そして男の手のひらが置かれている場所を見て、目を細めて眉を顰めた。
「おい、手ェ離せよテメェ」 「いや、おたく誰?ナマエちゃんの知り合い?」 「そーだよ。いいから離せ!」 「はあ?」
その時男の手が今一度私の胸の膨らみに触れた。わざとかたまたまか分からないけど、私の肩がびくりと跳ね上がった。先生、助けて、早く助けてください。そう願いながら目をぎゅっと瞑ると、男の体が後方にいきなりぶっ飛んだ。びっくりしてこの一瞬で何が起きたから分からない。でも反動で私の体も倒れそうになったところを、三ツ谷先生が捕まえてくれたことだけははっきりと分かった。
「せん、せい…」 「大丈夫?ミョウジさん」 「…は、はい」
さっきまで私にセクハラ行為をしていた男は、数メートル後ろで伸びていた。……え、これ、三ツ谷先生が殴ったってこと?
「ごめん、びっくりしたよな。体もってかれて倒れそうになっちゃったし」 「…先生があの人殴り飛ばしたんですか?」 「あー、まぁ、そうだね」
ちょっと気まずそうな顔をしながら先生は答えた。 え、ちょっと、三ツ谷先生強くない?ドラマとかで喧嘩のシーン見てもこんなぶっ飛んで伸びてる人ってそういないよね…いくら不意打ちだからってこんなんなる?先生は「まだまだ腕鈍ってねぇなー」とかなんとか言いながら自分の拳を見つめていた。
「こいつ、知り合いなの?」 「あーまぁ…初対面ですけど一応サークルのOB」 「ふーん…初対面であんなことしてくるなんてとんだクズだな」 「間違いありませんね…」
喋りながら自分の顎が微かに震えていることに気がついた。…ああ、私怖かったんだ。先生が現れるまでは自分でなんとかしなきゃって無我夢中だったけど、初めて男の人にあんな触り方されて、怖かったんだ。
「ミョウジさん…大丈夫?」 「へっ?あ、はい、もう平気です!ありがとうございました!三ツ谷先生、飲み会中だったんですよね?もう戻ってください」
先生に支えられたままだった体。名残惜しいけど自ら先生の手を外した。そして震える顎を隠すかのように頭を下げて再びお礼を伝えた。先生、どうか早く行って。これ以上私のそばにいないで下さい。じゃないと、私、
「…荷物取ってくるから待ってて」 「え!?いや、あの、だって飲み会は…?」 「こんな怖い思いして泣いてるミョウジさん、放っておけない」
すぐ戻るから動くなよ、と言いながら先生は居酒屋の中に走っていった。
頭を上げられないまま、私はその場に立っていた。だって私、いま涙まみれだから。だから頭をずっと下げていたのに、なんで先生は気づいたんだろう。でも先生が荷物を取りに行ってる間に涙を拭かなくちゃ、と顔を上げて鞄からハンカチを出していると先生はもう戻ってきてしまった。
「…先生、戻るの早いですよ」 「いやだって、帰られたらどうしようかと思って急いで…」 「見ないで下さい、こんな顔」 「なんで?ミョウジさんの泣き顔見るの初めてじゃないじゃん。…それにオレはミョウジさんの泣き場所だろ?」
そう言って、先生の前で初めて泣いたあの日のように優しく頭を撫でてくれた。
そうだ、そうだった。手芸部のコンクール前に泣いていた私に、三ツ谷先生は泣き場所になっていいと言ってくれたんだ。私がはっきりと先生を好きだと思ったのもあの日だった。私の気持ちをわかってくれて、いつも優しく接してくれる先生のことを好きになったんだ。
「…先生……助けてくれて、ありがとうございます…」 「うん」 「怖かった…」 「だよな。ごめんな、もっと早く助けられたら良かったよな」 「そんなこと、ない…!助けてくれたのが先生で…本当に良かったです…」
三ツ谷先生は頭を撫でながら、私の肩からずれ落ちたバッグを持ってくれた。そして「家まで送るから、もう泣くなよ」ってまるで小さい子を諭すかのように言った。きっと歳の離れた妹さん達にこうやって接してきたんだろうと想像がつく。
三ツ谷先生、…ううん、タカちゃん先生。もうこれ以上優しくしないでください。私勘違いしたくないんです。先生のこと結局ずっと好きな上に勘違いするなんて、そんな痛い女になりたくないんです。
だからお願いです。もうこれ以上優しく頭を撫でないでください。
甘くて優しい毒
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