予感





走る。はあはあと息が切れて苦しいけど、とにかく足を動かして走る。時々飲み込む唾が喉にへばりついて気持ち悪い。それでも、胸騒ぎをただただ肺から押し出すしかなくて、夜の森を駆け抜けた。



「フーカ、かわいくなったね」
否定はされなかった。街の明かりに照らされた顔を少し赤らめて、本当?と笑うキミは確かにかわいいと思った。
「うん、本当に。お世辞じゃないよ」
「ふふ、ありがとう」
照れくさそうに下がった眉に、耳の奥でどくんと響いたのをこらえて口角を上げる。

この世界に迷い込んだキミは、オレが思っていたよりはやく街のみんなに受け入れられた。オレにも気を許してくれて、店や料理も気に入ってくれて、毎週通ってくれるようになって安心した。

そのうち、キミは店に誰かを連れてくるようになった。

知ってるんだ。あの屋敷はどんなものからもキミを守ってくれる。ゲストのキミは彼らにとって誰よりも大事な女の子。キミにとっては誰よりも彼らが頼りになるはずだよね。

「……それでね、今日も朝からみんなでねーー」
うん、うん。キミの居場所はあそこなんだ。優しい人たちに囲まれて、大切な人たちの隣で笑って。それはキミの幸せ。まぶしくて、ずっとは見ていられないくらいの幸せ。

別に失恋したわけじゃない。オレにはキミよりもっと大切な人がいる。でも、目の前のキミが笑うのを今だけはひとりじめできるんだなんて、キミのいまを奪うことに抵抗を感じるなんて、こんなところで迷うなんて思わなかった。こんなのよくない気持ちだってわかっているのに、胸騒ぎがおさまらない。

「ーーがね、とってもすごいんだよ! 今度ソウにも見せてあげるね」
「……あ、うん。楽しみにしてる!」
"にっこり"って聞こえそうなくらいに笑ってみせる。

楽しみになんて、少しも思ってないくせに。

不意に頭の中でもう一人の自分が言い捨てる。けれどそれは拗ねているように聞こえて、はたと彼を振り返る。
……ねえ、それは裏返しだよね?いま、確かにオレは喜んだよね?

ふわりと浮きあがる心。
形になってはいけないものの輪郭が、自分の言葉で浮かび上がっていく。

オレがオレを止めなくちゃ。こんな気持ちじゃだめだって、ちゃんと思い出さなくちゃ。ここにいてはいけない。オレはオレに戻らないといけない。はやく、はやく帰らないといけない。

頭の回転を止めるほどの思いは言葉になり声に乗ってしまう。
「ソウ……?もう帰っちゃうの?」
「あ……そうそう、夕飯の支度しなきゃいけないからね」
念を押して作った笑顔はさっきと同じだ。いつも通りに笑っているつもりだけど、ほっぺたに力が入ってつりそうになる。

キミの向こうにはあの子がいるんだ。あの子が見えるから、オレはキミを見てしまう。キミの笑顔には無条件に引きつけられてしまう。

でも、キミはあの子じゃないから、それはいけないことなんだ。そんな気持ちが育ってしまったらあの子が帰ってこれなくなっちゃう。あの子を取り戻せるのはオレしかいないんだ。

ーーほら、オレの言葉が全部キミに向いている。キミといると全部、心までキミに巻き込まれてしまうんだ。

じゃあね、ひらひらと手を振る。うわの空の別れ際を取り繕うにはそこで身を返すのが精一杯だった。

買い物に出たはずなのに両手はからっぽで、それが嫌に軽くて大きく振った。それにつられて一歩一歩も大きくなった。オレを避けて流れていく空気はじきに風になり、反して身体はじわじわと重くもどかしさを増していく。
じゃり、じゃり。
街から離れていく道を蹴る足元がうるさい。足の裏からもやもやしたものがのぼってくる。頭の中ではさっきのフーカが笑う。
もう嫌だ。そう思ったところで強く踏み込み走り出した。



はあ、はあ、はあ。
詰まった声だけが聞こえる。

苦しいのはキミのせいじゃない。あの子のせいでもない。オレはただ走ってるだけ。はやく帰りたくて必死に走って、どうしようもなく息が切れてるだけ。

まだ着かない。まだ届かない。真っ暗な森を割って、ひたすらに草を踏みつけて、もうどこにも戻れない気がした。永遠に。


おわり









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