call my name




【序】

「フーカ様、お茶をお持ち致しました」
「ありがとう、マンボイ」

 真っ白なカップに注がれる蜂蜜色。この器と液体、互いに熱はうつっても決して溶け合うことはないなんて、まるで私とマンボイみたい。あ、そうだとしたらピンクのカップが良かったかも。
 ……ただのお茶を見てこんな偏屈なたとえ話が浮かぶなんて、いったい誰の影響なのか。カップから立ち上る湯気に、「フーカさん」と呼ぶ微笑みが浮かんで消える。
 オズの屋敷から娼館へ、私がどれだけ変わっても、あの人の笑顔は変わらない。屋敷のキッチンだろうと、街の中だろうと、ベッドの上だろうと変わらない。思い出したものにふたをするようにひとくち流し込むと、舌の上にやわらかい苦みがこびりついた。

「美味しい」
「良かった、ありがとうございます」

 あからさまにほころんだ顔。館では常に鉄壁の仮面を貫くくせに、ふたりきりの時には素を晒すかわいらしさ、これだからこの男を手放せるわけがない。

 そういえば、ドリアンからマンボイの真名を教わったのはいつだっただろう。さざめく快楽の中で何度も呼びつけたことは覚えている。私の声に反応してこわばる顔がおもしろかったのに、なかなか目を合わせてくれなくてつまらなかった。結局、そんなことはどうでもよくなるほどの気持ち良さを彼自身が教えてくれたからこそ、私がいまここにいるという現実が可笑しい。

 思えば、娼館という名前の意味、そこに通いつめる少女を街の人間がどう思うかなんて誰も教えてくれなかった。それどころか、私の周りにいたのは「さあどうぞ」と手を引く人に「いってらっしゃい」と手を振る人。その中で私を引きとめようとしたのが、いま目の前でポットを持って静かに佇むマンボイ。
 もしも、彼の忠告通り二度とここへ近づかなかったら。屋敷から伸びる赤いレンガ道のどこかで足を止めていたら。振り返って、何物からも守られたあの小屋へと戻っていたら。カップの中で広がっては消える輪のように、娼館とは無縁の暮らしを送っていたかもしれない自分自身の姿が浮かんでは消える。
 その中心にあるのは、私の最初の記憶だった。薄暗い路地裏、背筋の凍る恐怖、戸惑い、そしてオズという人たちに与えられた暖かさ。あの日私に起こった出来事は、それまでの記憶がない反動のようにはっきりと思い出せる。もちろん、その中でひとつだけ、あの人の表情を変えたものも。
「『大切な名前』、ね」
 名前すら思い出せなかった私が選んだはずの、自分の名前。私がそれを発した瞬間、鋭い光が走った氷のような瞳が忘れられない。ただ最初に思い浮かんだ名前を口にしただけだというのに、一瞬で彼の空気が変わった理由は何だったのだろう。『フーカ』ではない名前、その女の名が、彼にとってどれほどの意味を持つというのだろうか。

 ――もし、もしもなんだけど。
 『フーカ』ではなく、あの名前で呼んでもらえたら、貴方の本当の顔が見られるのだろうか。

 貴方の特別な名で呼ばれたら、私はどうなってしまうのだろう。貴方の目に映る『フーカ』は、もう『フーカ』ではなくなる。私は、私自身では決して触れることのできないところ、貴方の記憶の中に溶けてしまう。
 そう、あの名を借りた私の身体なら、ベッドの上に貴方の過去を引きずり出すことができるかもしれない。貴方があの名前を口にしてしまえば、私の身体が夜の闇から絡みつく。薄く唇を持ち上げただけの微笑みの仮面を剥ぎ取り、貴方をこの館へ、私のもとへ縛り付けられたらどれほど楽しいだろう。
「ふふふ」
 急に笑い出した私を怪訝そうにツバメが見ている。その顔を見て思いついたことなのに、これは秘密にしたいの、ごめんね。かわりに、「教えて欲しいことがあるんだけど」とカップ越しに上目遣いでねだった。

「ねえ、マンボイ。こんなに美味しい紅茶、どうやって淹れるの?」








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