ワルプルギスの夜に




 人の気配が無いことを確認し、寒さの消えつつある空気に息を吐く。視線ははるか空に向かい、斜めになった帽子を落とさないよう、片手を添えて抑える。
「あれ、キリエだ」
 真夜中の静けさから浮いたような声。すぐに彼だとわかりながら、キリエは間をおいて振り返った。
「おや……今晩は。こんな時間にどうしたのですか?」
「明日の仕込みの準備だよ。キリエは何してるの? 夜の散歩?」
 そんなところです、と会話を終わらせる。再びソウに背を向けると先程より重い溜息が出た。

「……ねえ、あの上に何があると思う?」
 が、自分の夜に戻ろうとしたキリエをソウは引き止めた。

 街の中心の広場、そのさらに中心で冷ややかに黙ったままそびえる塔。ソウはキリエの気付かないうちに隣へ立ち、キリエと同じように頭を上げ、空へ伸びるその先を見ていた。
「キリエ、よく見上げてるじゃない」
「そうですか?」
 よく、という印象を与えていることがキリエには意外だった。カラミアやフーカ達と通りがかっても足は止めない。その存在を意識してしまうと想ってしまうから、考え始めると止まらないことはわかっているから。そう心の区切りを決めて生活してきた、つもりだった。
「今だって、わざわざ真下に来てずっと見てたじゃない。こんな真夜中にさ」
「それはーー」

 今日は、魔女たちの夜だから。

 そう言っても、わかるはずがない。塔の上の彼女が、願いを叶える王様になりかわってしまった「伝説」は今さら覆らない。
 普段は誰も気に留めない存在を、こんな夜に出くわした二人が眺めている。誰が仕組んだのだろう、偶然がひどく滑稽に思えてキリエは笑う。
「……そんな気分だったんですよ、今夜は」
「ふーん」
 ソウの相槌に続きは無い。
 キリエの答えを聞いていないのか、答えに興味があったのかさえ怪しいほど淡白な反応だった。犬がしっぽを振るような人懐っこさに隠れて、わずかにぴりっとする瞬間。忘れそうになるソウの棘のようなものを久々に感じ、キリエは沈黙を保つ。
「そうそう、今日から5月だから、メニューを新しくするんだ。それで、差し変えるやつを今のうちに持ってきててさ」
 ……今度は勝手に喋り始めた。顔すら向けないキリエを気にもせず喋り続ける。やはり、先程の会話はただの思いつきで出た言葉なのだろう。
「ほら、見て見て!」
「え……何でしょうか」
 すべてを聞き流していたキリエはついに肩を叩いて振り向かされ、目の前で広げられたメニューを仕方がないと覗いてやる。夏を先取りした涼しげな料理、もう春は過ぎたと言わんばかりだ。デザートに並ぶアイスやかき氷には文字通り食いつきそうなアクセルとフーカの顔が浮かんだ。

 メニューの文字を順に追っていたキリエの手が止まる。ふと目に付いたのはその飾り文字だった。
「……そういえば」
 ピンと来て顔を上げれば、ソウの店の看板にもそれはあった。
「ソウ……何故、ルーン文字を?」
「わ、いきなりの質問だね! 別に理由はないけど……珍しくもないでしょ?」
「確かに、この街では他にそういう店もありますが……貴方、あの文字で読み書きができるんですか?」
「読めるよ! 昔お世話になった人が使ってたんだ」
「お世話になった人……?」
「うん。いっぱい本を読む人で、ああいう文字で書かれた本も声に出して読んでくれたから、そばにいたオレまで覚えちゃったんだ」
 どこの誰とも知らない人物、それを語るソウの言葉に、キリエの中で思い出される声が重なる。

 闇が怖くて眠れないとライオンが駄々をこねた遠い夜。幼い子供に童話を読んで聞かせるように、次から次へと物語を諳んじてみせたあの声。
 ーー魔女の文字を読み上げる、少女の声。

「もしかして……お客さん、読みにくかったりするかな?」
 手元のメニューとにらみ合い唸るソウ。
 その後ろに、ルーン文字の看板。
 そして、すぐそばには魔女(かのじょ)の住まう塔。
「……いえ、この場所にとてもふさわしいと思いますよ」
「本当? よかった! じゃあオレ、準備があるから」
「はい、頑張ってください。……良い夜を」
 理由が何であれ、偶然であれ、それが彼女の塔の足元にあることがキリエの胸を熱くした。それに気付きもせずただソウは笑った。それで良いと思った。
 キリエの立つこの塔のふもとでも、はるか遠いその頂上でも、永遠に繰り返されるひとりきりの魔女の夜。この夜に見つけた彼女の欠片はきっと、偶然ではない。
 少なくとも今晩は、もう溜息など出ないだろう。ワゴンへ駆けていくソウを見送り、再び空に消える先を振り仰ぐ。キリエの口元も少しだけほころんだ。


おわり








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