狩屋マサキという男は大概天邪鬼だった。右を向けと言われれば左を向くし、一方的に押し付けられた仕事には一切手を付けない。人から指図されることが嫌いであるがゆえに、この言い方は良くないとわかっていても、つい尖った言葉が口をついて出てしまう。人に反発するのが根っからの性分なのだ。狩屋マサキとはそういう男だった。




「狩屋、大丈夫?保健室に行った方がいいよ!」




だから、彼の身を案じる松風の言葉に「……うん。」と素直に返事をしたのは、狩屋が心を入れ替えたのでもなんでもなく、単純に具合の悪さが彼の許容を超えていたからに他ならない。
この時期の風邪はタチが悪い。拗らせてしまえば悪くなるのはあっという間で、昨晩から若干の気怠さを感じていた狩屋も、今朝になって自分が熱を出していることにようやく気が付いたのだった。



それでも今の自分の体調の悪さを、誰かに見せることを決して良しとしない彼の性格が仇となったようである。
午前中は隠しきれていたはずの気分の悪さが徐々に無視できないレベルに悪化し、顔にまで出ていたようだ。普段散々鈍いとからかっている松風に指摘されたのがそれを物語っている。



青ざめ、赤みを失った頬は冷えていくばかりで、内側から大音量でスピーカーをけたたましく鳴らされているかのような頭痛に気丈な狩屋も今はただ首を垂れるばかりだ。






「……ごめん。行ってくる」






誰が見ても強がりだとわかる弱弱しい、上辺ばかりの笑みを張り付けて狩屋は席を立った。付き添おうと後ろを追おうとした松風を「大丈夫だから、」と片手で制した狩屋は、まったくもって頑固な男だった。



松風の人柄を知る彼はまったく彼に信頼を寄せていないわけではない。けれど長年人に頼ることを知らなかった狩屋は、誰かの優しさをそのまま享受する術を知らないのだ。




松風から送られる痛いほどの視線を背中で受け止めつつ、狩屋は教室を後にした。今が休憩時間でよかった。各々が思い思いに羽を伸ばし、廊下をしきりにたくさんの生徒が通るため、誰も狩屋には気づかない。


一人でとぼとぼと歩く彼の後姿は小さく、時折誰かとすれ違いざまにぶつかりかけてはよろよろと壁にもたれかかる。それをどう思うわけでもなく息苦しげにため息をついた彼は、自分が思っていた以上に自分が弱っているのだという、その事実に心中で毒づいた。
松風に知られたことも癪ではあるが、何より試合を控えた大事な時期に風邪を引いた自分の不甲斐なさに腹が立つ。



(っくそ……)



プライドとサッカーへの情熱だけは人一倍である狩屋は、今や頭痛と吐き気と自己嫌悪で限界だった。込み上げてくる嘔吐感を手のひらで口を抑えることでなんとか耐えつつ、出来るだけ足早に保健室へと急ぐが、どうも体が言うことを聞かない。



苛立ちを感じる余裕もない狩屋はそれでも保健室を目指して重たい体を引きずり、階段の下に位置する保健室にようやくたどり着いた時にはすでに授業開始の鐘が鳴った後だった。






「失礼します、」






疲労しきった表情で扉をあけながら呟いた彼は、そうして中にいた人物を見て自分のタイミングの悪さにため息をつきたくなるのだった。






「狩屋?」






特徴的ともいえる派手なピンク色の髪をツインにしている、そんな生徒は生徒数の多い雷門中にも一人しかいないだろう。少なくとも狩屋が知っている限りはそうだった。



何かの書類に目を通していた霧野は狩屋の姿を確認するとハッと顔をあげ、椅子を引いて立ち上がる。律儀にそれを机の下にしまい、扉の前で立ち尽くしていた狩屋のもとに駆け寄った彼の表情もまた真剣だった。


思わず半歩足を引いたが、すかさず霧野に腕を掴まれ逃げることも阻まれた。もとから逃げるだけの余力もない狩屋だったが、咄嗟に身を引いたのは一種の習性のようなもののためどうしようもない。





「……なんでセンパイがここに」

「それを言うならどうして逃げようとしたんだ。サボりか?」

「俺は、少し休もうと……」

「だろうな。顔を見たらわかるさ。ほら、早く入れ」






だったら何でサボりかなんて聞いたんだよ、つーかアンタも俺の質問に答えろよ、言いたいことは頭に浮かぶのだがそれを言葉にするのもなんとなく億劫で、言われるがままに保健室の中に足を踏み入れた。


中には霧野しかいなかったようで、二つあるベッドもどちらも空きだ。人のいない保健室とは恐ろしく静かなもので、空調の音だけが言葉に収まりの悪い擬音を振りまいている。



ほとんどこのような場所に来たことのない狩屋にとってはどう動けばいいのかわからず、霧野の傍らにぼんやりと立っていると「とりあえずここに座って。」と指差された椅子に大人しく座る。
狩屋が文句の一つも言わずに指示を聞いたのを見て、霧野は霧野で「これは相当きついみたいだな。」と苦笑を漏らした。






「どんな気分だ?」

「……最悪です」

「だと思ったよ。まず熱測ろうか」

「朝から、少しありました」

「…朝から?それじゃ狩屋、無理して学校に来たのか?」

「……」

「……ったく。どうしてちゃんと休まなかったんだ。体調管理だって練習の一環だぞ」

「だって、」

「だってじゃない。悪化させてどうするんだよ、もう……」






霧野はそう言うと、ぐったりした様子の狩屋の額に手のひらを押し当てた。突然のことに対処できなかった狩屋は硬直し、ややあって大げさに「うわぁっ!?」と肩を揺らした。体を引くが椅子に座っているためどうすることもできず、触れられている額がどんどん汗ばんでいくのを感じつつ羞恥に頬を染め上げるしかない。罵声を浴びせようにも思考力の衰えた頭では良い嫌味も思い浮かばず口を引き結ぶ。



一方の霧野はそんな狩屋の目まぐるしく変化する仕草に口元をゆるませつつ、思いのほか高い熱に困ったように笑うのだった。これでは授業を受けられない。
部活も無理だろうな、と判断した霧野は手を放すと机の上に置かれていた記入用紙に適当に何かを書き込み、てきぱきと作業すると「これでよし。」とおもむろに立ち上がる。



ぽかんとしている狩屋はそのままに、霧野は手前側のベッドの枕カバーを取り換え、布団を整え始めた。面倒見の良さはサッカーにおいてだけでなく多方面において発揮されるらしい。






「狩屋、こっち。」






あっという間に準備を済ましてしまった霧野は、同じ体勢のまま固まっていた狩屋を手招いた。ようやく休めるのか、と狩屋も安堵しつつ、しかし自分が最も弱っているところを見せたくなかった相手にここまでしてもらったことに対するやるせなさに、一段と体が重くなるのを感じた。



そろそろと近づいたベッドはかたく、普段自分が使っている布団とはだいぶ匂いがする。洗剤の匂いだ、とシーツの肌触りを感じつつベッドに乗ると、霧野が呆れたように「そう珍しいものでもないだろう……」と呟いたが、それは聞こえないふりをした。






「なんとかは風邪引かないっていうのにな……」

「……ほっといてください」

「はいはい。きっと疲れが出たんだろうな。この時間ゆっくり休んで、先生が来たら家の人に迎えに来てもらうように言うんだぞ」

「……センパイ、行くんですか」

「まあな。授業には遅れたけど…俺、保健委員なんだ。係りで来ただけだから、そろそろ行かないと本当にサボりになってしまう」






頬を掻きながらそう笑った霧野は正論しか述べていない。係りのためにここへ来て、たまたま先生が不在だった。だから代わりに狩屋の対応をして、用が済んだため今から授業に戻ろうとしている。真面目な彼らしい行動だ。




けれど、どうして。狩屋はそれを唐突に、けれどはっきり『嫌だ』と、そう思ってしまった。それは自分でも未知の感情で、どうしてそんなことを思ったのかもわからない。
今の俺は俺であって俺ではないのかもしれないと思わず笑いたくなる。体調を崩すと精神が不安定になる、そんな話を聞いたことがあるが、今がまさにそれかもしれない。



この誰もいない、自分の唇の隙間から微かに漏れる呼吸音と口調の音だけで充たされている空間にただひとり。そこに残される妙な恐怖感と寂寞がたまらなくて、狩屋はぶるりと肩を震わせた。


頭痛は増すばかりで、体全体が未だ気怠さに支配されている。正直誰かと話す気分でもないし、その相手が霧野であるならばなおさらだ。
けれど。






「じゃあ、お大事に。またな狩屋」

「……」

「……狩屋?」






けれど、咄嗟だった。自分から離れようとした霧野の学ランの裾を離すまいと掴み、狩屋はそのまま無言でうなだれた。


どう、説明すればいいのかがわからない。この不明瞭で釈然としなくて、けれど確かに胸の内にある不安を。振り返ってきょとんと自分を見つめる霧野の視線が居心地悪く、けれどこの手を離してしまったら、彼は行ってしまうかもしれないと、そう考えたら狩屋はそれ以上動けなかった。
ぐるぐるとうまく働かない頭で次に言うべき単語を模索するが、やはりどれもこれも陳腐だ。



(ちくしょ……ちく、しょ…っ)



歯がゆくて、もどかしくて。こんなの俺じゃない、違う、俺はこんなに弱くないのに、ちくしょう。頭に浮かぶのは虚勢ばかりで、そんなことだけは絶対に言いたくなくて狩屋は思い切り唇を噛みしめた。少し切れたのか、鉄の味が口に広がった。






「……ああ、もう!!!」

「っ……!?」






突然の霧野の大声が鼓膜から脳へと響いて、狩屋の肩がびくりと跳ねた。自分の頭をがしがしと掻き毟る霧野の表情は狩屋の位置からだと見て取れない。あ、と思ったところで霧野はベッドの周りを覆うカーテンを閉めた。自分も内側に残して。切り取られた異質な空間に、二人の沈黙だけが取り残される。






「え、っと……」






何か言わなければ。けれど何を。悶々とする狩屋の思考を見透かしたのか、カーテンを掴んでいた手を離すと霧野は躊躇いなくベッドの上の狩屋に近づいて。






「……ごめん」

「!!」

「俺がバカだったよ……そうだよな。具合悪い時に一人きりは、堪えるよな」






ぎゅっと、霧野が狩屋の細い肩を抱き寄せた。幼いプライドに打ち負かされ急き立てる寂しさの受け止め方を知らない彼も、まだ子供だった。縫い合わせた温もりが二人の間に生まれ、しかしそれに誰も名前など付けられない。霧野の腕の中で、不意にじわじわとこみ上げてきた感情の名前を、狩屋は未だ知らずにいる。






「俺が、そばにいるから」






そう、霧野が狩屋の肩を白いシーツに押し付けたのと同時に窓の外で笛の音が響き、生徒の歓声が沸いた。体育の授業中らしい。沸き立つ喧騒を遥か遠くで聞きながら、次のホイッスルがもうしばらく鳴らないことを狩屋はひっそり心の中で願った。



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