自転車のタイヤが氷のリンク上を滑るように坂道を下っていく。全身に吹き付ける風は冷たいけれど、背中にぴったりくっついた狩屋の体温がはっきりと感じられるから、案外満更でもない。前でハンドルを握りしめながらくすくすと微笑を漏らす俺に、後ろに乗った狩屋が「何笑ってんスか。気色悪ィ。」とため息混じりに呟いた。反論はしなかった。



監督の指示で部活が急遽休みになった。疲れた体を休めろってことなんだろうけど、折角放課後が丸々空いたんだ。これを使わない手はない。
この可愛いげのない後輩と付き合い始めてからの一ヶ月、部活の時とその帰り道以外での時間を共有したことは、ない。



「放課後、一緒にどこか行かないか。」と尋ねたら、少し躊躇うように視線を逸らして、狩屋は「海が見たい、です。」と言った。
あいつが自分の欲求を言って見せたのは今日が初めてで、けれど少し距離のある海岸沿いまで俺が自転車を漕ぐ理由なんてそれで充分だ。






「冬の海が見たいなんて、狩屋は意外とロマンチストなんだな」

「そんなんじゃないですから、からかわないで下さい」

「いいじゃないか。誰もバカにはしてないだろ?」

「でも腹立つことに変わりはないんで」

「お前は一度年上に対する態度を改めた方がいいぞ」

「へっ。安心してくださいよ、霧野センパイ以外にはいい後輩演じますから」

「余計タチが悪い」






そう言えば、狩屋はくつくつと笑って、そっと俺の背中に寄りかかってきた。今にも向かい風に掻き消されてしまいそうな、限りなく細い声音で「言い換えりゃ特別ってことじゃん、ばーか。」と小憎たらしい嫌味を呟くこいつを、自転車にさえ乗ってなければ、俺は人目も気にせずに抱き締めていたと思う。運転中で助かった。



空はまだまだ蒼いままで、海をひっくり返して雲の方舟を浮かべたような天井はどこまでもひたすらに同じ色が広がっているだけだ。この群青は俺たちの網膜を通して、ひとつの青春を色づけるために存在する。ほとんどペダルを漕がずに、時折ブレーキをかけながら下るひたすらに長い道は人の一生によく似ていた。ぼんやりしていたらバランスを崩しそうになり、後ろから狩屋に思いきり背中を叩かれたのだが、そのせいでまた転びそうになって、なんとなく笑ってしまった。



俺が声を出して笑えば、狩屋も微かに空気を震わせる。俺にはわかる。あいつは感情を隠すのが上手いようで、実際はそうでもないんだということを。


いつだったか、円堂監督が狩屋の蹴るボールは優しいとか何とか言っていた。俺から言わせてもらえば、それは狩屋の持つ一面の一つにしか過ぎない。複雑な感情、思考回路、ひねくれた性分を掛け合わせて構成されたあいつの多面に共通して言えるのは、言葉ひとつに含まれてるのが、ひとつの意味ではないということ。
重ねられた気持ちの表面が言葉となって唇の隙間から紡がれ、七割の自己防衛と二割の自尊心と一割の優しさとを内包して、俺の鼓膜を震わせる。狩屋はそういうやつだ。






「狩屋」

「はーい?」

「好きだ」

「へえー」

「見ろよ、海だぞ」

「……本当だ」






坂も随分と緩やかになり、時折ペダルを踏み込みながら、俺は眼下に広がる空とは種類の違う群青を見下ろした。「あっ」と思わず声をあげたのは、日に照らされた海の色が狩屋の髪のそれと似ていたからだ。不意に見つけたエメラルドに、不覚にも心臓が跳ねた。それだけの話だ。



ふと、背中に感じていた狩屋の体温が一瞬離れて、代わりに躊躇うように指先で触れたのがわかった。「狩屋?」と尋ねるが、返事はない。振り向こうにも自転車に二人乗りしているこんな状況で、転倒して怪我でもしたら一大事だ。仕方なくそのまま海岸沿いに向けてスピードをあげれば、再び狩屋の体温が俺の背に寄り添う。






「……センパイ」

「どうした」

「本当は海じゃなくても良かったんですよね、俺」

「うん」

「アンタが連れてってくれるんなら、どこでもよかった」

「知ってるよ」






太陽の光が水面に反射して、きらきらと瞬いて、まるで海に宝石箱をひっくり返して散りばめたような、そんか景色を一望しながら。俺は何度も狩屋の声を、言葉を、その中に組み込まれた意思を脳内で反復させる。


さて、困った。きっと俺は海に来るたびに今日のことを思い出して照れ臭さに肩を竦めるだろう。
その時隣でこいつが「いつまでモジモジしてんですか。」と笑い飛ばしてくれたらいいと、そう切に願う。



いつの間にか俺の腰にしがみつく形で後ろに座っている狩屋に、「降りたらまずキスさせろよ?」と問いかけてみる。返事の代わりなのか背中にぐりぐりと額を押し付けてきたから、俺は綻んだ口許をもはやどうすることもできなかった。



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