いっそ、その喉笛に噛みついて血が滲むくらいきつく歯を立ててやれば何か変わるのかもしれなかったが、ひゅっと息を呑んで自分を凝視する剣城の目が、それはもう彼にも鏡か何かで見せてやりたいと思うほどにゆらゆらと、風に遊ばれた水面の如く揺れていたから、それで松風はひどく満足してしまった。



きっと何もかもが、嘘みたいにきれいな本当だった。夜が明けて朝が来るのが、人が息をするのと同じくらい至極当然であるように、松風は今この時のことを遥か彼方遠い記憶の片隅から組み合わせて予期していたのだ。



彼が一歩踏み出せば、剣城が控えめに一歩後退する。それでも松風を罵倒してその手を振り払わないあたり、剣城という人間の底は至って浅い。深いように見えるのはその心臓の在処が屈折しているように見えるためだ。



松風は目敏くそれを肌に感じ取っていた。全身の体毛が粟立って、ぞくりと背筋が伸びる。自分の性分を把握している松風の方がよっぽど聡く、人間らしい。






「……松風、」






動揺を帯びたその声は、しかし凛とした響きを以て松風の鼓膜を震わせる。三半規管を経て神経菅を駆け巡る剣城の声は、今この瞬間彼だけの物だ。全身を抱くようにして踞る。母の胎内にいるようだった。



蛍光灯の僅かな明かりが朧気に映し出した剣城の輪郭を、なぞる星に例えてみたいと松風はただ、思う。いつだって彼の唯一神は絶対だ。剣城の瞳から、疑心暗鬼が消えた。ただただひたすらに美しい夕焼け色だった。






「何も言わなくていいよ」






だからそう笑うだけの強がりは、剣城には通用しないのだ。地球の窓から見える景色に星は映らない。ここで彼が吐き出した情熱が気化して大気さえも覆ってくれたなら、松風も何もかもを太平洋に差し出す決意も出来ただろうに。



幼いままに抱いた恋を衝動のままに押し付けてみても、そこから導き出されるのは愛ではない。この関係に名前がないのは、世界中に散らばった何気ないことば一つ一つがいつの間にか薄汚れてしまっていたからだった。汚染されるのは大気だけではないのだ。誰かの温もりを待ちわびる赤子も賢く泣いて見せるばかり。



誰かが、この気持ちに当てはまる言葉を作ってくれたらいいと、松風は切に思って唇を噛み締めた。この口は未だ唄うことさえ叶わない。まっさらな気持ちだけが取り残されて、形にならないまま夜に溶けていった。



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