その日の綱海さんはいつもより少しだけ朝食の時間に遅れて、いつもより少しだけ寝癖がひどくて、いつもより少しだけ寝ぼけた顔で、すでにご飯を済ませて休憩していた俺の座っていた机の向かいによろよろと腰を下ろしたのだった。
「おはようございます」
「んー……はよ」
「……大丈夫、ですか?」
珍しい。本当にそう思った。いつもなら誰よりも早く起きて海に駆けていき、結果として時間ギリギリにはなるものの、気分爽快と言うか、晴れ晴れとした顔で明るい笑顔を振り撒くのが常の綱海さんなのに。
まだ目が冴えていない綱海さんは頭をグラグラと揺らして舟を漕いでいる。朝食をトレーに乗せて運んできてくれた音無さんも目を見開いて、「え?え!綱海さん!?」と肩を揺すった。反応はイマイチ。重症らしい。
「えーっと……綱海さん。朝ごはん食べれますか?」
「食べなかったら練習もたねー……」
「え?いやいや!練習できないですよその体調じゃ!」
お箸をさながら幼児のように鷲掴みにして魚を食べようとする綱海さんを慌てて止める。具合が悪いんですか?と聞いたら絶好調と返ってくる。疲れてるんですか?と聞いたらすげえフワフワしてると返ってくる。かつてないほど眠いらしい。
「綱海さん、あーん」
「あー……」
無理やり引ったくった箸を、隣に座り直した俺が使って口元に運んでやると、普段は思いの外プライドが高くて「はあ!?子供扱いすんなよなー。俺は先輩だぞ?」とけらけら笑う綱海さんが、無抵抗に口を開いたのだから俺はもう半ば自棄だった。
「立向居……お前、おふくろみたいだな……」と土方さんが後ろで呟いたのが聞こえたけど、俺が思う限り15になったら親子でもあーんはしないと思いますね。あーんは。
「おいしいですか?」
「眠い」
「知ってます」
「食わせて」
「口を開けてください」
「あー」
「飲み込んでから!」
「んー」
なんて不毛なやり取りだろう。寝ぼけた彼が詰まらせないよう小さく、喉にひっかからないよう丁寧に小骨を取って、綱海さんの口元にせっせと料理を運ぶ俺の図は、明らかにこの宿舎の中じゃ異質だ。
それでもこの時間は、あまりにも穏やかすぎた。ちょっと幸せかもしれないなんて、ああもう、俺はいつだって綱海さんに甘い。
「んー……立向居」
「はい?」
「ごちそーさま」
「まだ半分残ってますけどね。残りは壁山くんに任せましょうか」
「なー立向居ー……」
「はい」
「眠い」
「知ってます」
今日二度目のこのやり取り。どうやら綱海さんは限界らしい。目の焦点が定まらなくなるまで眠くなるって、この人は昨日何を考えながら床についたんだろう。
「すいません、俺、綱海さん寝かせてきますね。」と俺たちのやり取りを呆けて見ていた先輩方に一言伝え、足元がおぼつかない綱海さんを背負って食堂を出た。仮にもゴールキーパー、彼一人を支えるぐらいの力はある。俺の体がもう少し大きければお姫様だっこしてあげられるのになあ、と頭の片隅で思った。ただの小さな願望だ。
「ほら、もう少しですから起きててください」
「んむ」
「ほら、綱海さんの部屋の前ですよ」
「ん」
「監督には俺から言っておきますから」
「ふぐ」
「聞いてますか」
「なあ、立向居、」
とん、と肩を叩かれて、ああきっと下ろせって意味なんだろうなと思ったから、言う通りに綱海さんを部屋の前で下ろした。フラフラしてる。慌てて支えようと思ったら、逆に引き寄せられて、キス、されてしまった。
「昨日の夜からずっと考えてた、けど、やっぱ思い浮かばね」
「……はは」
「いっかげつ、おめでとさん」
「綱海さんもおめでとうですよ」
「そーだな」
おやすみ。そう言って、気だるげに部屋の向こうに帰ろうとした綱海さんを、今度は俺が抱き寄せて捕まえて、触れるだけのキスをした。不器用な恋人を持つと周りが見えなくなっていけないな、と小さく反省したけど、今はそんなの関係ない。唇を塞がれたまま夢の世界に旅立とうとしている綱海さんの脱力した体を支えながら、今ならお姫様だっこできる気がするなんて考えた俺も、相当バカで不器用だった。