風は悲しげに頬を撫でるだけで、そこには空虚を孕んだ微かな温かみが佇むだけだった。晩夏の雨は香るのだ。鼻を掠める独特の湿っぽさは薄れ、秋の訪れを感じさせる枯れた吐息が白く淀む。陽が沈もうとしている。夕焼けは深夜を照らす弓なり月よりも寂しい。



思えば彼女について知っていることより、知らないことの方が増えてしまった。十年間はやはり長く、重い。歴史がある。到底五分話した程度ではわかり得ない歴史が。



木暮は空を仰いだ。ただそこにはあの日と変わらない夕焼けだけがぼんやりと街を照らしている。
嘘を見抜くオレンジは、憧れていた人の遠い背中を彷彿と思い出させた。錆びていた心を溶かす、笑顔によく似ていた。






「背、伸びたよね。木暮くん」

「まあね」






素っ気ない返事しか出来ないのも、夕焼けに染まった音無の横顔を見ていられないのも、彼がまだ幼いながら抱えた感情を忘れていないからに他ならなかった。


誰よりも木暮自身がわかっていた。この気持ちはどうも、彼の舌足らずの言葉では全てを伝えきれないらしい。



最初に裏切ったのは自分かもしれなかった。欺けば、空の色を変えられると信じていたかった。夢にまで見た紺の瞳は孤独すらも抱擁する闇夜のブランケットと形容するにふさわしい。見透かされていたのだ、もうだいぶ前から。






「木暮くんは、少し大人っぽくなった」

「当たり前だろ。音無はなーんにも変わってないけどな」

「もうっ!私だって大人っぽくなったでしょ?」

「どうかな。うっしっし!」

「木暮くんの意地悪……」






むす、と頬を膨らませる彼女の仕草はやはり昔と何ら変わりないように思える。けどそれはあくまでも主観で、木暮から見た音無の印象なのであって、人はどうあっても歳をとる。体つきは女性らしくなり、声音も大人びた印象に変化し、面影は変わらずともあの日の彼女はそこにはもういないのだ。


目眩がした。くらくらと。しかし何とも言えないほど、優しい気持ちになるのを木暮は感じていた。
教えてくれたのは、音無だった。


取り残された思い出の片隅に、縛られるのはもうやめた。踏みしめた地面の上に落ちているのは何だろう、いつかはそれは雪解けを待つ春の兆しだと思ったこともある。



木暮は春を待つのをやめた。代わりに迎えに行こうと思った。彼女は春を連れてくる。音無と共に季節は巡るのだ。






「嘘だよ」








綺麗になったね、音無せんせい。


そう言ったら、彼女はどんな顔をするのだろうか。



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