昔の夢を見た。かつて愛した男は、夢の中でさえもリカに優しくなかった。嘘だ。彼はいつだって彼女に優しかった。
時としてそれは暴力を振るわれるよりもツラく、嫌いだと罵られるよりも酷なものとなる。刃のない凶器は確実にリカを貫いた。



あの日。かつて愛した男を忘れると決めたあの時。リカは泣かなかった。
今日。かつて愛した男を思い出したこの時。リカはほんの少しだけ、泣いた。



彼が恋しくなったわけではない。彼が、彼女にとって思い出に変わりつつあるという事実に打ちのめされたのだ。
あれほど愛した、それこそ彼のためならば自分という存在を捨ててしまってもかまわないと思えるほどに想った男だというのに。



音の無い朝は穏やかな空虚でのみ浮かび上がるのだ。リカは真っ白なキングサイズのベッドから這い出て、閉めきられていたカーテンを開け放った。眩しすぎる日に、思わず顔をしかめる。この身を焼くような朝日を今、彼もその体に受けているのだろうか。






「どうかしましたか?」

「わっ」






窓の外のラウンジにはすでに身なりを整えたエドガーがいた。イギリスの町を一望できる眺めを見下ろしながら風を全身に浴びるその立ち振舞いは、優雅で気品が漂っている。醒めた蒼の髪に受けた日の光が眩しい。


リカは「なんや、もう起きとったんか。」と苦笑をもらした。彼女は割りと朝に強いと自負していたが、エドガーも大概早起きであった。



エドガーの手招きに応じ、リカも彼の隣に立つ。バルチナス家が所有するこの別荘に来たのは、これで何度目だろう。変わらないイギリスの町を二人で眺めるのは、これで何度目だろう。
変わっていくのは人の営みだけだ。エドガーの隣に立つたびに、リカはそう思い知るのだ。






「アフターヌーンティーにはまだ早いで」

「目覚ましみたいなものですよ」

「紅茶がかいな。男やったらビシッとブラックコーヒーで決めんかい」

「甘いものが好きな男はお嫌いですか?」

「そんなわけあらへん」

「それは良かった」






ふ、とエドガーが微笑む。
リカもつられて微笑んだ。


エドガーは聡く、勘が鋭い。そんな彼がリカの涙の痕に気づかないはずがない。
しかし、それでもエドガーは何も言わなかった。必要なかったのだ。リカもそれをわかっていた。目を閉じても、もうかつて愛した男の顔は浮かばなかった。






「なあ、エドガー」

「はい」

「うち今日な、ダーリンの夢見たんや」

「一之瀬一哉ですか。どんな夢だったんです?」

「さあなぁ。詳しくは覚えてへんけど、ダーリンめっちゃ笑っとった気がするわ」

「貴女は?」

「うち?そうやなあ……たぶんうちも笑っとったと思う。せやけど、」

「けど?」

「目が覚めて安心したんや。ああ、良かった。全部夢だったって。おかしいやろ?」






リカはエドガーのスーツの裾を、きゅっと握りしめた。何度こうして彼に頼っただろうか。何度こうして、エドガーに寄り添っただろうか。



かつて愛した男は、やはりリカにとって特別な人間だ。それは未来永劫変わることないだろう。
でも、それでもリカは選んだ。自分がこれから愛するであろう男を、自らの意思で。



彼女の滑らかな空色の髪に、エドガーは唇を寄せた。呼吸するのと同じように自然な流れでリカにキスを落とすと、リカはくすぐったそうに、しかし幸せそうに笑った。






「なにするんや、いきなり」

「貴女があまりにも可愛らしいから」

「うちはそんな口説き文句にほだされたりはせんで?」

「いいのです。私が勝手に伝えたいだけなのですから」

「質の悪い紳士やで。うちがそういうんに弱いの、計算して言うてるやろ?」

「そんなことは、ありますけど」

「あるんかい!」






大阪娘の本場のツッコミを入れると、エドガーはくしゃりとあどけない笑顔を見せた。リカしか知らないその表情を、きっと一生他の誰かが見ることはないだろう。彼の幸せもまた、そこにあったのだ。



『彼を無理に忘れなくてもいい。彼の代わりにと利用されたとしてもかまいません。ですから、私を貴女の側に置いてください。』



あの日、エドガーはそうしてリカを繋ぎ止めた。
今、愛している男はきっとリカを幸せにするだろう。






「なんか、すっごくアンタに負かされた気分や」

「え?」

「なんでもあらへん!」






彼女の左手の薬指に嵌められた指輪が日の光に照らされて、きらりと煌めいた。



∴感傷にも浸れやしない



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