興味があるなら弾いてみなさいと、幼い頃サッカーの練習の合間に父がピアノに触らせてくれたことがある。鬼道は絶対音感があるわけでもなく、ことさら音楽自体にそう関心があるわけでもなかったが、父が勧めてくれたものには全て応えたいという意識が人一倍強かった。



父と二人で暮らすには広すぎる大豪邸の、ほとんど使われていない部屋のうちの一つ。そこにぽつん、と置かれた古びたグランドピアノはそれだけで威厳を放っていた。
拙い指使いで初めて叩いた鍵盤は、小さな少年の細い指に埃を付けるだけだった。



ぽろん。ぽろん。指に力を込めれば単調な音が返ってくるだけだ。楽譜を読めなかった鬼道にまともに弾ける曲などはない。片手を不器用に動かして、なんとなく耳に心地よいリズムを探す。
ぽろん。ぽろん。自然と奏でられたメロディは、不思議と耳に馴染みがよかった。



ピアノに夢中になった、という記憶はない。あの頃からいつだって彼の中心はサッカーだった。総帥の期待通りのサッカーをすることが、鬼道の喜びでもあったからだ。
だが、ふと時おり鍵盤を叩きたくなることが稀にあった。理由はない。ピアノが別段好きというわけでもない。けれどあの単調な音が無性に恋しくなることがあって。そんなときは、鬼道は休憩時間を使ってよくピアノに触りに行った。



音色が、まるで言葉の失われた声のように思えたのだ。自らの手で奏で出した緩やかな音調は、時の流れとよく似ている。一瞬の感動はいとも容易く失われ、しかし確実に鬼道の心を穏やかにした。


目を閉じれば、そこに愛する妹の姿すらも浮かんだ。所詮、幻想だ。しかし甘美な夢の写し身でもあった。






指先で、ピアノの外縁をなぞる。ますます年期が入っていっそう古ぼけてしまった姿は、しかし相も変わらず堂々として立派だ。
久しぶりに入ったこの部屋も、一応掃除だけはされていたらしい。汚れらしい汚れは見つからず、昔のままの変わらない姿で鬼道の瞳に映った。






「へえ、随分似合わねえ趣味もあったもんだ」






鬼道の後ろからひょっこり顔を出した不動が、つかつかと部屋の中に入る。ジャージではなく、普段着のラフな格好である彼とピアノはひどく不釣り合いで、その似合わなさがおかしくて、鬼道は小さく微笑をもらした。






「別に趣味というほどのものじゃない」

「これ、売っ払ったらいくらになんだろ」

「不動、お前はどうしてそう……」

「へえへえ。庶民は短絡的な考え方しか出来ないもんでスイマセンねぇ」

「誰もそうは言っていない。いい加減そのひねくれた性格を直せ」

「はっ。ムリ」






にやりと嘲笑した不動の目に、このピアノはどう映ったのだろう。ただの金持ちの娯楽だと、そう思われたのだろうか。
(それとも、)



鬼道にとって、この空間は彼の十四年の人生が詰め込まれたものだ。愛される喜びを知り、妹のために躍起になり、父の愛を素直に受け止めきれず、しかし再び親子の絆を結んで、そして。



おぼつかない指先で鍵盤を適当に叩く不動を見つめた。ゴーグルごしに見える不動の瞳には、柔らかな光が灯っている。
(そして俺は、人を愛する喜びを知ったんだ。)



侵食されていく。悲しいだけの思い出がピアノの音色と、不動に塗り替えられていく。そんな気がした。






「下手くそ。代われ」

「あぁ?」

「俺が弾く」






不動をやんわり制止し、鬼道はその隣に立った。一瞬目を丸くした不動が、すぐに得意のポーカーフェイスを取り戻し、「はっ!」と挑戦的に笑ってみせた。






「別に聞きたいわけじゃねえんだけど?」

「俺が聞いてほしいんだ」

「ふうん、あっそ」

「不動」

「んだよ」






鍵盤に指を置く。懐かしい、この感覚。指先から伝わる、この感触。全てが、変わらない。


ただひとつ、隣にいるこの体温だけが唯一の変化で、鬼道にとって絶対的なものだった。






「お前に捧げる」






――ありがとう。


やがて紡がれ始めたメロディはやはり拙い子供の演奏だったが、その抑揚のないラブソングに不動は目を閉じて耳を澄ませていた。


ずっと。



∴幸せバラード



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