取り残された思い出の中では、笑うことさえ苦痛でしかなかった。
母が見つけやすいようにと好んで着ていた夕やけ色のコートを、燃やしてしまったのはいつだっただろう。随分と昔の話だ。感情と共に、母への愛も不燃物置き場へと捨て去ったのは。
後悔はしなかった。ただ、虚しさばかりが募った。
信じる、なんて綺麗事だと思っていた。悲しみは携帯電話の積立料金みたいにリセットなんてできない。
星のない夜空を見上げる度に言いようもない虚無感に襲われる日々。繰り返す。ただ、繰り返される。なかったことにできないならば、せめて自分を守りきろうと。
もうすぐ、母がいなくなって何度廻ったかもわからぬ春がくる。囚われ続けた心は死んだ。
気まぐれに愚痴を溢していた口は、今は綺麗な弧を描いている。
「嬉しそうだね、木暮くん」
がたん、がたん。
電車に射し込む夕焼けが、彼に話しかけた少女、音無春奈の柔らかな笑顔をも照らし出す。
がたん、がたん。
振り向いた木暮は彼女を一瞥し、うしし、とオレンジ色の笑顔ではにかんだ。
「俺、電車に乗ったの、初めてなんだよね」
がたん、がたん。
車内に響く規則的な音と、微かな震動。それが今はたまらなく心地良い。
窓を覗き込めば見える四角く切り取られた景色が、まるで今まで木暮が生きてきた世界とはまったく別のもののようにも思われた。
高層ビルが所狭しと立ち並ぶ東京のど真ん中にも、のどかな暮らしの営みを尚も忘れていない京都の町にも、雷門にも漫遊寺にも、分け隔てなく夕焼けは満ちるのだ。
殺風景な、しかし同じように染め上げられた田園風景を眺める木暮も、そしてその隣で彼を見つめていた音無も。
「電車、好きなの?」
「どうかな」
記憶は色褪せたが、事実は不変だ。幼い木暮を傷つけた思い出の断片は、今も彼に突き刺さったままである。
駅は母を最後に愛し、そして母を最初に憎んだ場所。残像が貼りついたままの瞼を閉じるたび、息苦しくなる全ての起因。
(どうして俺は、いまさら行こうだなんて。)
忘れもしない、あの駅のプラットホーム。これから音無と訪ねるのは京都の町はずれにあるそこに他ならない。
(それも、こいつなんか連れてさ。)
ちらりと音無を覗き見る。彼女も木暮を見ていたがために、一瞬かちりと視線があい、慌ててバッと顔を背けた。音無はただくすくすと笑うだけだった。
(でも、なんとなくわかる気がする。)
不意に行きたくなったのだ。母を許すのではなく、母との思い出と決別するためでもなく、それでも音無を連れてもう一度だけ行こうと思えた。
これはきっとあの日切り捨てた、死んでしまった心を迎えに行く旅なのだ。
「だいじょうぶだよ」
もう一度、木暮は彼女を振り替える。傍らに座る音無は、もう木暮を見てはいなかった。ただひたすら優しい声で、目を閉じたまま唄うように言ったのだ。
「きっと、好きになるよ」
その顔が、不意に幼いながらに焼き付けた母の穏やかな笑みと重なる。
(そうだ、俺はなんだかんだ言って、あの人の笑った顔が好きだった。)
がたん、がたん。
今度は木暮が大人しく音無の隣に座り、そして躊躇いがちに彼女の肩に頭を預けた。一瞬目を丸くした音無は、しかしすぐに年相応のあどけない笑顔を浮かべる。
いつだって、彼女は虚無感さえも幸せに変えてくれていた。
人を信じることを綺麗事だと思っていたのは、一体いつだっただろう。
少なくとも、音無に出会う前のことだった。