果たしてこの手で、守りきれるのだろうか。



夜明けはまだこない。月は深い雲の向こうに沈められ、しかし光が何処からか漏れ出しているのであろう。うっすらと金の光がちらつく大空は確かな明日の訪れと、行方も導も失った昨日の終わりを告げている。



水平線は靄がかかったように滲んで、見えない。
俺の隣で未だ深い夜の名残を映し出す海原を見つめていた綱海さんが、口を開いた。金魚のように何度か口をパクパクさせ、やがて言葉にしないうちに再び閉じる。



思うに、綱海さんはそうやって呼吸しているのだ。彼の吐息は空に還るのではなく泡となる。お伽噺であれば救いがあったかもしれないが、その横顔が孕む美しさはまぎれもなく俺たちを取り囲む牢のような現実を突きつけている。






「海が」






呼んでるんだ。
そう綱海さんは言った。


きっと今この繋いだ手を離してしまえば、彼は迷うことなくこの海の深淵へと飛び込むだろう。地球の七割を占めるこの水溜まりは、世界の寂しさを内包している。きっと綱海さんは孤独もわからぬうちに溶けてしまうだろう。






「今、貴方の隣にいるのは俺ですよ」

「うん、そうだな」

「綱海さん」

「なんだ?」

「いかないで」






果たしてこの手で、守りきれるのだろうか。
俺は綱海さんを誰よりも愛していると思っている。けれどこの手は、まだこの世の理も何も掴めてなどいない。感情が行き着く最果てを見たことなどない。絶望すら知らないこの手で、俺は綱海さんをどこまで連れて逃げることができるのだろう。



金の光が視界を照らす。どうやらようやく夜明けがきたらしい。
ずっとそうして海を眺め続けていた綱海さんが、俺の方を向いた。潮風に拐われた髪が舞う。季節外れの桜みたいだと思った。






「お前さ、覚悟とかしてるか?」

「何のですか」

「俺と別れる覚悟」






にこりともせず、スパッと言い切った彼はまっすぐ俺を見据えたまま言った。






「してませんよ」






だから、俺も真っ正面から言ってやった。


この手を離さなければならないときは、いつか必ず訪れるだろう。
この絡めた指と指の間に、心があったとしても。


独り善がりの愛情なんて何の役にも立ちはしない。それを認めるには俺は幼すぎた。


綱海さんの手を引いて、俺は海に一歩足を踏み入れた。冷たい。皮膚の感覚が緩やかに奪われていく。忘れられる体温は死のイメージに似ていた。






「俺は、貴方を想って生きていきたい」






するり。息をするのに等しいほど自然な流れで、手が離れた。俺は綱海さんを振り替える。影で、顔がよく見えない。


地上に朝焼けが満ちる。日の出とはつまり人間にとってうまれることと同じでしかない。繰り返す。今日もまた俺たちはうまれたのだ。
うまれた瞬間にある人を愛することができるなんて、俺はなんて恵まれているんだろう。






「立向居はなんてゆうか、無駄に男前なとこがあるよな」

「無駄ってなんですか」

「拗ねんなよ。すきだぜ、俺は」






そういうとこも引っくるめてさ。綱海さんがそう言って笑っているのが見えた。日の光に照らされた、彼の笑顔を見るたびに俺はこの心臓がまがいものではないことを認識する。このいのちも、体も、呼吸も、嘘じゃない。綱海さんは、嘘じゃない。


終わりなんかないんじゃないかって。綱海さんと一緒にいる時に、俺を呼んでくれる時に、キスしてくれる時に、彼が笑ってくれるときに、本気でそう信じることができたんだ。
このままどこまでも行けるって。俺と綱海さんなら、最期までいきていけるって。


そう信じられることが、一番幸せなことだったのかもしれない。






「戻ってこい」






再び彼が俺の手を取る。そのまま引き寄せられて、海から一歩砂浜に出た。打ち寄せる波が、俺に届く前に海原へと消えてゆく。いつか誰かが流した涙が、この海を塩辛くしているのだ。


海は悲しい味がする。けれど、不思議ともう孤独感はない。空気に晒されている、今しがたまで海中で極限まで冷やされていた両足が、まるでそこに存在していないかのような錯覚に陥った。






「安心しろって。俺だって、そんな簡単に諦められるくらいの気持ちなら、最初から男に惚れたりなんかしねえよ」






ああ、この限りなく残酷な世界で、綱海さんだけはいついかなる時も俺に優しくあってほしいと願った。






「じゃあ相思相愛を祝してキスしましょう」

「なんだそれ」






そして同じように、綱海さんにとっての絶対的唯一もまた、俺であればいいと思うのだ。



∴君のために息をする



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