夜。読書しているヒロトの部屋で漫画を読むのがここ最近の俺のお気に入りだった。ヒロトは集中していても、俺が話しかけたら振り向いて「なに?」って答えてくれるし、俺の話を聞いて相槌も打ってくれる。とにかく退屈することがない。
それはたぶん(見た限りでは)ヒロトも同じで、とにかく俺たちにとってその就寝前の一時間弱こそが、まさに憩いの時間だった。
そしてそれは今日も変わらず、自室から漫画を持ち寄った俺を、ヒロトは笑って部屋に引き入れてくれたのだった。
「ごめんな、いつも」
「いいよ。俺も緑川がいるほうが楽しいし」
「へえ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。そんなに甘やかしても漫画以外持ってきてないぞ?」
「それは残念。気を利かせてお菓子でも持ってきてるかと思ったんだけどな」
「おあいにく様!俺はそんなにマメな男じゃないよ」
「はは、それは知ってる」
「え」
「なんだいその顔?まさか冗談のつもりだった?なんだ、じゃあ謝るよ」
「うっ……意地悪だぞヒロト!」
「あはは、ごめんってば」
クスクスと笑うヒロトを見て、俺までほっこり胸の内があったかくなるのを感じた。こういう何気ないやり取りが、二人で過ごす時間が、エイリア学園の時には決して見ることのできなかったヒロトの自然な笑顔を見るのが、大好きだった。
俺はヒロトが好きだった。
だった、じゃないや。好きだ。どうしようもなく好きだ。
「ほら、座って」
「うん。ありがと」
二人で綺麗に整えられたベッドに座る。ヒロトの右側、部屋のドアに近い方が俺の定位置だ。ベッドは壁にぴったりとくっついているから、必然的に俺達はお互い壁を背もたれ代わりにして本を読み始める。
ときどき俺が寝転がってベッドの半分以上を占領したりするけど、それもいつの間にか暗黙の了解になっているようだ。今日もだらだらと横になった俺を怒りもせず、ヒロトは黙々と文字の列に目を走らせていた。
(やっぱり、横顔キレイだなあ………)
俺がそうする時は、たいていヒロトの顔を見たくなった時。下から見上げるヒロトの真剣な表情は、見ているだけで心臓がうるさくなるくらい綺麗だと思う。
こんな邪念を持って毎晩部屋を訪れているのだから、多少罪悪感みたいなものは感じるさ。だけど、やっぱり止められない。
ヒロトをもっと独り占めしたい、なんて。本人には到底言えないけど、こうしてるだけでも充分幸せだからそれ以上は望まない。
と、そこまでひとしきり考えたところで、ヒロトの視線がいつの間にか俺に向いていたことにやっと気づいた。もしかしたら知らず知らずのうちに凝視してしまっていたのかもしれない。
「どうかしたの緑川?人のことジッと見て」
「いや、あの…それ!誰の本かなと思って!」
「本?ああ、これ」
合点がいったようにヒロトは小さく微笑んだ。そうそう、と頷きながら俺は心の中で(セーフ!)と安堵する。ごめんヒロト、俺には今の恥ずかしい心情を暴露する勇気なんてないんだ。
一方ヒロトは今まで読んでいたページにしおりを挟み込み、パタンと本を閉じて俺にそれを渡してくれた。表紙に『吾が輩は猫である』というやけに大きな文字がプリントされている。その下にはふてぶてしい猫の絵。
「知ってるでしょ、夏目漱石。特にこの本は有名だしね」
「あ、ああ。そりゃあ…」
とは言ったものの、俺は読書はからっきしだから、本の名前しかわからない。夏目漱石も有名だから記憶にあるってだけで、その人がどう偉大かなんてことは全然知らなかった。もうちょっと国語勉強しとくべきだったかもしれない。
「緑川は、この本読んだことある?」
「え?いや……まあ、ちょっとだけなら」
「ふうん?じゃあ夏目漱石の他の本はどう?」
「坊っちゃん………とか、なら」
「へえ、そう」
「うっ……信じてないだろ!」
「信じてるさ。緑川はこんな小さなことで嘘なんてつかないだろう?」
「ぐぐ……!」
ふふ、とヒロトはほんの少し顎を上に引いて目を細めた。このしぐさはヒロトの癖みたいなものだ。主に、意地悪なことを考えているときの。つまり。ヒロトは完全に気づいてる、はず。
(ちっくしょ〜……!)
好きな人にいいところを見せたい、というよりも単純に俺のプライドがこの空気を許さなかった。情けないような、惨めなような気分になって、持ってきた数冊の漫画を抱えてベッドを降りる。これ以上ここにいるとさらにボロを出しそうだし、何よりいたたまれない。
なんだか言い負かされて逃げるようだけど、これ以上ヒロトにカッコ悪いところを見せるよりずっとマシだ。
「あれ、帰るの?早いね今日は」
「ね、眠いからさ!明日も早いし…だからっ、」
「ふふ…そっか、じゃあついでにカーテン閉めてくれないかな?」
「ああ……わかった」
ヒロトももう寝るということなのだろう。言われた通り、窓の側に寄ってカーテンを掴む。
ふとそこで、今日は星がいつもよりもよく澄んで見えることに気づいた。空気が澄んでいるのか、雲が一切かかっていないからなのか。天体に詳しくない俺はよくはわからないけど。
もしかしたらヒロトの近くで見ているからなのかもな、なんて思う俺は案外ロマンチストなのかもしれない。昔から自覚はあった。
「……緑川?」
ぼーっと夜空を眺めている俺を不思議に思ったのか、ヒロトが首を傾げて俺を呼ぶ。その声にはっとなって、俺はカーテンを掴む手に力を込めて、そして。
「ヒロト……、」
ふと目に入った、夜空に浮かぶ白い満月を見上げて、無意識に呟いていた。
「今夜は、月が綺麗だな」
「………え?」
「……あれ」
おかしいな、別に言おうと思ってたわけじゃなかったんだけど。気づいたら口をついて出ていた。人間って不思議だ。
「じゃあおやすみ、ヒロト」
「うん…おやすみ……」
「?」
出ていく時にちらっと見えたヒロトの顔が真っ赤だったような気がしたけど、どうしたんだろう。
翌日、俺は身に覚えのない告白の返事をされて、晴れてヒロトと恋人同士になるわけだけど、それはまた別の話として。こういうの…ことわざでなんて言えばいいのかな。
まあ、なんにせよ幸せだからいっか。