折原臨也/drrr



 このキスマークが消える頃、私たちはどうなっているのだろう。
 曖昧な二人の行く道は、右折の進展か、左折の消滅か、もしくは直進の現状維持か。

 胸元をくすぐる彼の前髪と、時折走るチクリとした痛みを受け流しながらそんなことを考えていた。
 押し倒された机の上、積まれた印刷物の匂いとノートパソコンの温度がやんわりと私を包んでいる。頭だけが別の空間にあるようで、ぼんやり天井を眺めていると、急に二の腕を掴まれた。力強く引き上げられ、思わず臨也の肩に縋り付く。欲情を隠さないぎらぎらとした目が間近に迫り、息を飲む。
 彼のやり方はいつだって自分本位だ。

「机、手ついて」

 進展、消滅、現状維持。
 一見三択に見える選択肢も、実のところ一択に等しかった。駄目な大人は往々にして、ずるずると道なりに流されるものだ。私は諦めて後ろを向く。自ら体勢を低くする前に、背後からのしかかられ机に組み伏せられた。
 今さら来た道を引き返すことなど出来ないが、たまに、後ろを振り向きたくもなる。

 私たちが最初に触れ合ったのは、一年前の六月だった。

 梅雨の只中だというのに雨雲はなく、初夏の懐かしさに胸がやられるような、どうにも危なっかしい一日だったことを記憶している。

「キスってあんまり好きじゃないよ」

 長いキスの後でそう言って、その日、臨也は劇場公園の片隅で空をあおいでいた。

「咥内は、粘膜の中でも脳に近い。こうやって直接触れ合わせてるとさ、何もかもが混ざり合って、思考ごと盗みとられる感じしない?」

 そう嘯く彼の思考など私には全く読めず、手を引かれタクシーに乗り込んだ後も、窓をよぎる高速道路の橋桁を数えることくらいしかできなかった。
 外とは打って変わり、季節感を排除したマンションの一室に連れ込まれ、出された茶を飲む間もなく詰め寄られる。初めてソファーの上に押し倒された時、臨也はまるで自分の爪の手入れでもするかのように、なんの躊躇いもなく私の肌に触れた。うまく力を抜けない私の体を巧妙になだめすかし、手際良く、要領良く、するりと自分のものに変えてしまったのだ。私は突然の行為に怒ることもできず、ただ言い知れぬ違和感に体を震わせるしかなかった。
 そして彼は、二度目の射精の後でこう言った。

「悪くはないけど、次からもう少し自分で動いてね」

 結局今に至るまで私が自分から動くことはほとんどないが、それでも臨也はそれなりに満足して息を吐く。人の弱点を見抜くのがうまい彼らしく、みるみる私の体を把握した臨也に、いいように扱われるようになるまで時間はかからなかった。
 しかし臨也との情事に対する違和感はずっと拭えず、彼の体温を感じるたび、鳥肌が立つような所在なさを感じた。

 そもそも、彼がセックスという人並みの行為から快楽を得られるということが信じられなかったし、私のような身近な人間にまで欲情できる、雄のさがを持ち合わせていることも意外だった。
 そして私がはじめ拒否感より驚きを示したことに、彼は少なからず不満を感じていたようだった。異性として舐められているどころか、男としての機能にすら疑いを向けられていたことが心外だったようだ。

「俺、不能とでも思われてたわけ?」

 何か苛々することでもあったのか、八つ当たりのように床に引き倒され、そう問い詰められたことがある。
 私はその時、彼を三大欲求に従い生きるごく普通の生き物だと、認識していなかったことに気付いた。彼は好奇心という原動力を元に、情報という餌を食べ大きくなる、何かシステムのようなものだと、勝手に思い込んでいたのだ。

「臨也は私にとって、生き物……ましてや性別を持った同じ種族の生物では、なかったから……」
「……ふーん。じゃあこれからもしつこく教えてあげる必要があるね。俺も意外と健全で単純な造りをしてるってこと」

 その日は結局彼が飽きるまで床から起きることを許されず、体があちこち軋んでしまったのを覚えている。
 彼は私を抱く時に、ベットを使うことは少ない。いつでもぞんざいに、自分の体の一部のように私を扱った。自分が気持ち良くなるために私の体を蕩けさせることはあったが、勝手なことに変わりはなかった。
 私もそれに慣れてしまっていた。慣れる必要があった。
 
 臨也がいなければ、私は生きていくことができない。

 彼のくれる情報がなければ、一択や三択どころか、私は道を歩くことすらできないのだ。まるで薬物に手を出した中毒患者のようだ。

 手に入れれば入れるほど、彼の言葉は私の生活に根を張り枝を伸ばしていく。その下に成り立った対人関係や職業事情は、もはや私一人の手に負えるものではない。生活を続けていくために私は彼の元を訪れ、あの梅雨の晴れ間を境に、その度、当然の如く抱かれるようになった。
 かさむ対価を支払う財力が私にないことなど彼は始めから解っていたし、その上で依存性のある情報ばかりを私の脳みそに植え付け続けた。体を差し出すくらいで見逃してもらえるなら感謝すべきと、私が思っていることも彼は知っている。
 自分の人生を陵辱されているとわかっていても、ここへ来る足を止めることができない。

「上の空だね、今日は」
「……っ」
「飽きた?俺とするの」

 シャツは捲られ、ストッキングは下ろされてしまっている。
 中途半端に晒した肌に、大きな窓から差す日中の日差しがあたり、たまらない所在なさに体が震えた。

 下着の隙間から指が入る。中が潤っていることを指先で確認すると、そのまま音を立てるよう滑らされ、私は手のひらを握りしめた。浅い位置を往復する中指の腹が、時折陰核に触れ声が漏れる。

「……ん……ぁ……ッ!」
「前さ、こんなに敏感だった?」

 後ろから触っていた手が前へ周り、そこだけを重点的に弄られる。あまりの刺激に目がかすみ、視界の端で揺れるパソコンのスリープ画面がじわりと滲んだ。
 反射的に腰が浮き、ねだるような体勢になってしまう。慌てて息を吸い力を抜くが、遅かった。

「中いじってないけど、もう充分開いちゃってるしいいよね」
「や、だ……まって!」
「あー、無理だ」

 バックルをずらす金属音が聞こえ、予想した動作より早く、性器を入り口にあてられ体が強張る。その生温かさに驚いて身をよじった。

「う……ぁ!ゴム、つけて……っ」
「なんで?」
「おねがい、」

 頼んでも無駄なことは頭のすみで理解していたが、体に入り込む生々しい感触に脳が拒否感を示す。

 なんでと問うその意味がわからず混乱した。今まで避妊せず行為に及ぶことなど無かったのに、なぜ突然こんなことをするんだろう。疑問ばかり浮かぶが揺れる脳では答えなど出ない。
 彼は馴染ませるように奥にゆっくり押し付けると、しだいに小刻みに腰を動かしはじめた。私だけでなく、彼の性器から少しずつ分泌される体液が中でねちねちと混ざり合い、二人の境目が曖昧になる。
 初めての感覚を、快感と判断した体はますます熱く潤った。脳から遠いこの粘膜をこすり合わせて、私たちがわかりあえることなど、一つだってない。

「……っ、吸い付きすぎ……ッ」
「んぅ、あ……や……!」

 左手で腰を抱え込まれ、右手は肩をぐいぐいと押さえつけてくる。そんなに力を込めなくても、私の体は子宮を中心にしてぐずぐずに溶けてしまっているようで、ただ机に頬を貼り付けることしか出来ない。臨也もいつにない快楽の逃し場所を探しているのだろうか。無言を貫くことの多い彼の口から、時折小さく喘ぎが漏れた。

 しばらくの間緩急をつけ律動を繰り返した彼は、一度大きく息を吸い、私の背中を数回撫でた。ぞくぞくと体が震え、膣がぴたりと彼を締め付けるのがわかる。臨也はつられるように挿入を深くすると、体勢を下げ、手のひらを机についた。
 人差し指の指輪がガチリと鳴り、目の前に銀色の火花が散るようだ。目が眩む。

「っいくの……?」
「はぁ!あっ……や、だぁ!」

 追い詰めるように揺さぶられ、体の奥からものすごい量の快感が溢れてくるのを止められない。汗が滲み、手足に力が入る。

 絶頂の瞬間引きつる息を確かめるように、臨也は私の口元に指を添えグッと腰を押し付けた。全身が跳ね、快楽が体中を駆けめぐり、息苦しいほどだ。体がびくびくと縮こまるのが恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。

 背後から上半身を覆う臨也の体は、服越しですら伝わるほど熱を持っている。
 彼の長い指先がつやつやとした机のメラミン板を白く曇らせていた。自分の息が同じように水滴を浮かせているのを見て、私は思わず泣きそうになる。
 こんなに体内を火照らせても、私たちがその熱を共有するのはほんの一瞬だ。違う生き物だから、各々が内側を焦がしながら別の場所で生きていくしかないのだ。だから証が欲しくなるのだろうか。
 愛しあってなどいないのに、なぜ今こんなことを思うのか、自分でも理解できない。

「……っ、」

 肩口を痛いくらいに掴み動きを止めた彼が、私の中に欲を放っていることは明らかだった。濡れた膣内で彼の性器が脈打っているのがわかる。
 直前まで激しく突かれていた私の内側はぎゅうぎゅうと彼をしめつけ、まるで射精をうながすように膣壁を寄せている。それが気持ちいいのか、彼は背を丸めずいぶん長い間精液を吐き出していた。

 ふいに体の力を抜いた臨也の荒い息が、敏感になった首筋にあたり声が漏れる。ゴム越しに達した時と違い、名残を惜しむようにゆるく腰を揺すっているところをみると、彼も相当な刺激に襲われているようだった。
 本能と無意識にまみれ、のろのろと性器を擦り付けてくる臨也から、いつものこすっからい計算高さは感じられない。人間が好きな折原臨也もしょせん人間であり、動物であり、男であり、雄なのだ。

 取り返しのつかないことをされたというのに私の体は糸が切れたように動かない。
 後を引く快感を存分に味わい尽くし満足したのか、ようやく腰を引いた臨也に、つられるよう床へ滑り落ちた。

「……はァ、避妊なんて、バカらしくなるね」

 そう言って浮ついた声で笑うと、彼はさっさとティッシュに手を伸ばす。
 床にへたる私を見下ろす臨也が、どんな顔をしているのかわからなかった。上から伸びてきた指が、遊ぶように髪を一束掬う。

「ね、次からはちゃんと、危険日に来てよ」

 たちの悪い冗談なのか趣味の悪い皮肉なのか、それとも最も悪いことに本気なのか。行為後のぼんやりとした頭では判断もできない。その上初めて味わう下半身のぬめりに、不用意に立ち上がることすら叶わなかった。

 八方塞がりの私はこの期に及んで自分が哀れになることに絶えられず、涙だけは堪えようと口を噤む。

「……犯されて中出しされて、これ以上失うプライドなんてないんだから、我慢せずに泣いたら?」
「……」

 すかさず落とされた追撃に胸のあたりがぐわんぐわんと揺さぶられ、息が震えた。目の前が歪むようにかすみ、頭の中心から熱いものがこみ上げる。もう、どこもかしこもふやけてしまっていた。
 情事の嬌声をかみ殺すことに慣れても、泣き声が抑えられないのは何故だろうか。みっともない。唇を噛んで嗚咽に耐えていると、視界に二本の腕が映り込んだ。
 後ろからそっと、包み込まれる。

「ごめんね。君が知りたいことなら、これからだってなんでも俺が教えてあげるから」
「……」
「だから、傷付けさせて」

 耳元で囁かれた言葉に嘘はなく、頬を撫でる手のひらは温かく、指輪だけがひんやりと冷たい。銀色の光が目の前で揺れている。やはり私に、逃げ道や曲がり道は許されていないようだ。

 キスマークが消えることはないのかもしれない。彼の体温にもう、違和感を感じることが出来なくなってしまっている。
 胸に手をあてれば、秒針よりも速い鼓動が未来を強く求めていた。



辻子


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