学園長室前につくとなまえはすぐに退去した。残された与四郎が室内に入りかねていると、見越したように中から「入りなさい」と声がかかった。

「失礼いたします。風魔流忍術学校から参りました錫高野与四郎と…」
「良い良い。話は聞いておる、書状は山村の婆さんからかの」
「はい、こちらでございます」

 入門票に名前を書いた覚えはあるが要件まで伝えた覚えはない。なまえにしても喜三太にしても「学園長に用がある」としか言わなかったはずだ。あの事務員は門のところから離れなかった。さすがに相手が学園長であれば、生徒の誰かが先回りした、というわけでもないだろう。
 とっさに平静をつくろった与四郎の顔を見て、学園長大川平次はにやりと笑った。

「意識していないつもりでも懐に注意が行っておるぞ。入れる物は限られるじゃろう。刺客でもなかろうし、大方手紙の類だろうとアタリを付けたんじゃ。無意識を意識せんといかんなあ」

 からからと笑う老人に、与四郎は思わず平伏した。

「失礼しました!御教授ありがとうございます」
「ああ、そう固くなるな。…どれ」

 ざっと開いた書面をに目を走らせて、大川は顔を上げた。

「…錫高野君、この手紙の内容は伝え聞いているかね」
「いえ。喜三太と仲が良かったという理由で使いを任されました。その書状を学園長先生にという以外は何も聞いておりません」
「ふむ…」

 顎をさすって何事かを考えていた大川は、やにわに手を叩き「ヘムヘム!」と声を上げた。なんだその暗号は、と内心首をかしげた与四郎の前にあらわれたのは頭巾をかぶった動物で、思わず口を開けそうになる。しかもそれがしずしずと茶を運んでくるのだからもう大変だ。「ヘムゥ」って。粗茶ですが、とか言っているらしい。
 完全に固まった与四郎に構わず、大川はうまそうに茶をすする。

「何も入っておらんから安心して飲みなさい。返事は君に託すとしよう」

 手にした書状を真っ二つに破いた。
 思わず表情を固くする与四郎に「折角だから燃やしたとでも言っておくれ」と、大川はまた人を食ったような笑顔を見せた。





 少年が退室した後、大川平次は縁台へと歩み出た。日が暮れてあたりは薄暗い。
 普段は傍らにいるヘムヘムでさえ近寄らない。先ほど破り捨てた書状を手で弄びながらそっと嘆息する。

「まったくどこから漏れるやら…。どこぞの城でないだけマシじゃが、」

 …潮時。
 頭に浮かんだ言葉を口にはせず、袖火を取り出して近づける。薄い紙はあっという間に燃え上がり、地面に落ちる頃には灰になって風に散った。

 六年前のちょうど今頃、古い友人が幼子を連れてやってきた。すでにあらかた血も出尽くして死に体であったのにしっかりした足取りでこの部屋までたどり着き、用件を伝えてから逝った。昔馴染みのそんな願いを断るはずもなく、彼の頼み通り、その幼子を学園の生徒として育てることにした。
 そもそもこの学園はそんな子供のために作られたのだ。
 どこに後ろ盾があるでもなく、戦乱を生き抜く術を持たない子たちが、自分の力で未来を選べるようにと。彼が幼子…なまえをここに託したのは正解だった。どんな道をも選べるようにと、忍術学園は徹底して周囲との中立を図っている。どこにも属さず、どこの干渉も受けない。 それでも、たった一人の貴種を匿っていると周囲に知られてはあまりにも不利だ。万が一にも軍事にすぐれた城が複数共闘して攻めてくれば、いかに優れた忍びをそろえていても押されてしまう。
 忍術学園と同じように周囲からの孤立を図っている風魔忍者であれば、おそらくこの情報を他に漏らすようなことはしないだろう。今回の手紙の主が山村リリーであるなら尚更だ。風魔の頭領たる彼女は確証のない情報で人を売るような真似はしない。

 しかし、彼女は老いた。

 自分や、友人がそうであったように、もはや世代交代の時を迎えている。後身に就くのが誰かという情報は入っていない。もしや先ほどの少年を考えているのかと思ったが、まだあの力量ではそれは無いだろう。よほどの手練でもなければ、後継とあろう者を単身忍務につかせる真似はしないはずだ。
 リリーが後継と公言するのは孫にあたる少年…山村喜三太は、忍術学園にいる。
 一族の技術を秘匿することでその価値を図ってきた風魔。喜三太の転入は、その姿勢を根底から覆す出来事だった。おそらくこれから風魔は荒れる。否、既に火種はある。まだ年端の行かない後継者と、その現状に不満を持つ者。
 現頭領が外部に情報を漏らさぬよう目を光らせても、里の中では既になまえの存在を知る者が複数いるだろう。その全ての手綱をしっかり握っていられるほどリリーは若くない。だから今回の手紙をよこした。


「…ヘムヘム。なまえを呼んできておくれ」


 かつて友人が事切れた場所、庭先に目を凝らしたまま大川は思う。

 せめて卒業まで選択の時を伸ばしてやれればよかった。
 あの子供を待つ未来は、どれもあまり易しいものではないはずだから。