「卒業まで一年切っちゃったなあ…」

 医務室に1人座っていたなまえは、帳簿を繰る手をふと止めた。
 ときどき顔を合わせる級友たちは、最近ではもう誰がどんな人なのかあまりわからない。化粧や着物の合わせ方やふとした仕草に話し方。入学して二年は間違いなく「友人」だったはずの彼女たちは、あっという間に綺麗になって薄い影をまとった。女子の時間は男子のそれとは密度が違うらしい、特にここ数年。
 学園に居座る自分と廓へ入る彼女たちとでは、そもそも実習過程が違う。
 女の武器を最大限に磨きぬく彼女たちの葛藤も現実もなまえは知らないし、体のつくりから違う男子に必死でついていくなまえの傷も努力も彼女たちは知らない。
 そんなだからたまに会ってもあまり話は弾まずに、数名づつで囲まれる輪から、逃げ出すようになまえは抜けてくる。
 そして、そういうときに、どうしようもない焦りが生まれる。

(私は「外」に出られない)

 学園に来た時のことはあまり定かではない。
 よく知っている誰かの手にひかれてここまで来た。乾いてかたい感触は覚えている。それからとても不安だったこと。九つの年を数えていたはずなのに、どうしてか記憶はひどくあいまいだ。 
 母も父も兄も姉もいたことは知っている。いないことも知っている。
 不在の理由を学園長から聞いたのは三年生の秋だった。

(「何も覚えておらんか。…うむ、それは仕方ない。お前の爺様も忘れていて良かったと言うたろうよ」)

 とんでもなく信憑性のない話をあっさり信じたのは、自分の体質が人と違うことをはっきり感じていたからだ。見聞きする薬の名前や効能にすべからく覚えがあったからだ。
 上学年になれば顔をさらす機会の増えるくのいち教室の課程から、その時点ではずれることが決定した。
 この学園にいる間は学園長をはじめとした人たちが自分を隠していてくれる。
 けれど、その期間はもうすぐ終わる。
 誰かが手を引いて道を示してくれるのはすぐそこまでだ。
 なりたいものがあるのかと聞かれれば、真っ先にあがるのが誰からも殺されない存在になること。そして二番目にあがるのが、 

「手当頼む!」

 ぼんやりとした思考を断ち切ったのは聞きなれた声だった。
 戸口を引きあけると案の定、やたらとぼろぼろになった食満留三郎が立っていた。なまえの姿を見て驚いたような顔をしたが、彼女の目線は既に他にあった。

「うわ…何この馬鹿みたいな傷の量。何か所あるの?また潮江と喧嘩したの?馬鹿なの?」

 裂傷の数々をざっと眺めるとすぐさま室内にとって返し、手桶と手ぬぐい、軟膏を用意する。てきぱきとした動きの中で投げかけられた遠慮のない言葉に、食満はむっとした顔で医務室の中に腰かけた。

「馬鹿はあっちだ。せっかく人が修理したものまた壊しやがって…」
「伊作が聞いたら『せっかく人が治療した体をまた傷つけるなんて!』って怒るでしょうね。私も同意見。はい上脱いで、拭くから」

 食満が言葉に詰まる。伊作なら四半刻は小言が続く。そう考えると今日ここにいるのがなまえひとりで幸運だったと言えるだろう。上衣を脱ぐとすぐになまえが冷たい手ぬぐいで肩やら背中やらを拭いた。

「うーん、伊作が怒るのもよくわかるね」
「悪かったな」
「怒ってるんじゃなくて心配なの。潮江は?」
「気合いで治るとか言ってたぞ」
「…あのすかぽんたん何回言ったら…」

 いらっとした拍子に力が入ってしまい、傷口をぐりっとこすられた食満が思わず呻いた。

「わ、ご、ごめん!」
「大丈夫だから気にすんな。前は自分で拭けっから」

 ひょいと手ぬぐいを取り上げて腕やら胸やらを拭きだした食満に背を向け、なまえは湿布を作りはじめた。少しの間沈黙が流れ、そういえば彼の手当てをすることがあまりなかったなと思い出す。それも大抵保健委員や新野先生と一緒だったから、ふたりきりになるのは初めてだ。
 小さな裂傷や打撲はそのままにするとして、処置すべき傷は胸と左肩。使い終わった手ぬぐいを受け取って、湿布を貼るべく向かい合うと、気まずそうな食満と目があった。

「ん、何?」
「いや…」

 言葉を濁されて内心首をかしげる。 
 不安にさせるほどの腕ではないと自負しているが、先ほどの「傷こすり」で心配になったのだろうか。多少はしみるかもしれないが、下級生でもないし、薬をそこまで怖がらなくてもいいのに。少しだけ思案して、なまえは話題を変えることにした。

「それにしても、潮江の医務室嫌いは困ったな。ちゃんと手当てしないと後々に響くこともあるのに」
「…心配か?」
「それはもちろん。あ、でも全然来ないわけじゃないの。伊作のいない時を見計らってくるんだけど、そういう時に治りかけの傷とか見るとね、ちゃんと最初っから来てよって思って」

 話しながら包帯を巻きつける。
 必然的にかなりの近距離で会話するので、食満の小さな動きも伝わってくる。溜息を聞き逃さなかったなまえは胸のあたりから顔を上げた。天井を見上げた食満の喉仏が動くのが見える。

「おまえさ、文次郎も毎回こうやって手当てしてんの?」
「こうやって、って…まあだいたい同じような処置かなあ」
「そうじゃなくて、その、他に誰もいないのかって」
「ああ」

 どうだったかと考えつつ巻き終えた包帯を止める。左肩に移ろうとすると、少し不機嫌そうな食満の顔を見つけた。少し赤い。

「1人の時が多いかな。あ、でも人手不足とかじゃないからね。後輩ちゃんたちがちょっと外したときとか。…食満、少し顔赤いね。熱っぽい?」 
「別に」

 何か機嫌を損ねることを言っただろうか。
 そもそも喧嘩した相手の名前を出したことが失敗だったかもしれない。せめて伊作の話題にでもしておくんだったと反省しながらなまえは口をつぐんだ。
 一通りが終わって食満が上衣に袖を通す。服の具合と歩き方からして下半身に負傷はなさそうだ。袴を脱いでくれとはさすがに言いづらかったので内心ほっとする。

「ありがとな。助かった」

 立ち上がった食満は普段通りの笑顔で、なまえもつられて笑顔を返した。
 ほっこりと陽だまりの温かい、春の日の午後である。