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「…落武者?」
伊作のつぶやきに「それ」…否、その人は顔をあげた。
わざわざ話しかけるような奇特な人間に驚いたのか、一瞬目を見張り、わざとらしい笑顔を作る。
「やあ」
穏やかな口調だったが、反面、光の届かない海底のような声だった。
なまえの背中がまた粟立つ。伊作は小さく息をのんだが、それきりだった。
繋いでいた手を離して伊作は彼に一歩近づく。なまえは苦無に手をやる。
「怪我をされていますね。血のにおいがする」
「その通り。君たち二人を一度に相手にするのは無理がありそうだな」
「そうですか。あいにく僕たちはあなたとやり合う気はありません」
「ほう。それなりに価値のある首だと思ってたんだが、過大評価だったかな」
「価値観は人それぞれでしょうから。それより僕にはあなたが怪我をしていることのほうが重要です」
ゆるゆると漂っていた殺気がはじめて消えた。
男は苦笑しながら伊作を、ついで水を汲みに行ったなまえの背中を眺めた。
「まいったな。たかだか旗泥棒とはいえ、私は君たちを処分するべき立場なんだがね」
「戦のどさくさですから奇特な人間もいますよ。通りすがりの医者見習いが二人いたんです」
「…どこぞの物騒な学園の、ね」
最後の言葉は素知らぬふりで伊作は男の甲冑を脱がせた。男は特に抵抗する様子もない。あらわれたのは包帯でぐるぐる巻きになった異様な風体である。肩から胸にかけてのあたりが出血に赤く染まっている。しかし男が動けなくなるほどの傷ではない。
「ずいぶんいい薬を使ってますね。…南蛮の膏薬でしょう」
「博識なことだ」
「一度見たことがあります」
竹筒に水を汲んでなまえが戻ってきた。片腕には先ほど洗ったばかりの裂き布が抱えられている。準備がいいことだと言って男が苦笑した。
「火傷じゃ洗浄して冷やすだけかな、私たちにできる処置は」
あきれたような顔で男が言った。
「よくわかったね。見ていないっていうのに」
「…それだけ薬の匂いをさせているからにはかなり広範囲の傷病…一時的な発疹ならわざわざこんな状態で動いたりしないでしょうし、手当ができないから悪化した壊疽ってわけでもない。残るのは火傷くらいかなと」
うんうん頷きながら手際良く包帯をはがす伊作と、爛れた皮膚に全く動じる様子のないなまえに、とうとう男は溜息を吐いた。
「ああまったく、本当にまいったよ。二人とも連れ去ってしまいたくなる」
二人とも返事もせずに黙々と作業をしていたが、気にせずに男は続けた。
「うちは医師不足でね。まぁ居ないわけではないんだが、医者のくせに鼻薬に弱くて御典医ではどうも長続きしない。町医者を適当に拾ってきてみても技術も知識も乏しい。まして君たち、忍びだろう?もういっそ私の配下に抱えたいくらいだ。どうだい卒業後に」
もう見事なまでに正体は看破されてるので、いまさら隠し立てする必要もなかった。
本気とも冗談ともつかない男に伊作がにっこりと微笑んだ。
「僕は卒業後も遊学する予定です。この子もそちらにはやりません」
「え、私まで?」
「ですからお断りします。第一、」
思わず素の口調が出たなまえにかまわず、伊作は男の包帯を止めた。妙な凄みのある笑顔になまえも男も言葉を飲み込む。伊作は珍しく本気で怒っているようだ。
「こんな状態でこんな行動するような人を上司と呼びたくないですよ。被虐趣味でもあるんですか。僕はそういうのが一番腹立たしいんです。医師不足だなんてどの口が仰るんですか。そう思うなら御自分の行動を省みてください。患者を減らす努力をしたことあるんですか」
男は気まずそうに目をそらし、なまえは同級生の幾人かを思い出して生ぬるい気持ちになった。大変ごもっともな説教だ。完璧すぎて口を挟む余地がない。
着物の前を合わせる男のもとから、二人が立ち去ろうとしたときだった。
「待ちなさい」
低く、しかし支配力のある声になまえと伊作は同時に動きを止めた。
またたきひとつの間をおいて背後で何かが倒れる。短い呻きで人だと察せられた。
「いつの間に…」
「有望だがまだひよっこだね。お行き、私の周りは少々危険だ。早くしないと囲まれるよ」
目の前で会話している物に悟らせる予備動作もなく、極めて自然に男は何かを投げつけたようだった。伊作も、なまえも、男の動きどころか背後にいる者の気配にさえ気付かなかった。それだけの腕を持つものに囲まれる男。そしてものともせずに一撃で沈めた腕。まったくとんでもなく高値の首である。たかだか学園の生徒には遥か遠い。
わずか青ざめた少年と少女が姿を消した場で、男は唇をゆがめる。愉快な日だ。面白いものを二つ見つけた。
「…いずれ、また」