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 下級生たちが皆それぞれの部屋に戻ったころ、片付けを終えた食満となまえはだいぶ暗くなった戸外を歩いていた。

「伊作、先に行っちゃったね。お茶ぐらい飲んでいけばいいのに」
「移動の疲れもあるんだろ。今日明日は寝かせておくさ」
「え、明日以降は何かあるの?」
「あいつの荷物、すごい量だぞ?なんか新野先生から色々あずかって来たとかで、うちの部屋ほとんど埋まってる」
「うそ、じゃあ私も荷ほどき手伝わないと!」
「いや、まあ、医務室に運んでからでいいからな?」

 食満がふと立ち止まった。

「…あのさ、今日のことなんだが」

 ああ、となまえは食満を振り返った。開く一方の身長差のせいだろうか。薄闇の中で見る食満はすっかり大人びて、なんだか知らない男のように見えた。いずれ学園をでたならば再会の可能性は低い。まして成長によって姿かたちを変えていくなら、自分が知る「食満留三郎」をこの先見ることはかなわない。
 雑戸の出した条件に対する答えはまだ決めかねていたが、それでも残り多くはない「現在」をしっかりやきつけておこうと、なまえは目を凝らした。

「これ、よかったらもらってくれ」
「え?」

 差し出された包みに、なまえはきょとんと瞬いた。
 てっきり菓子類や、道具の修繕を請け負ってくれるとか、そんなたぐいの「お礼」だと思っていたのに。大きさに反比例して丁寧につつまれた状態から、なにか高価なものであると知れるそれ。食事当番一回ぐらいでと困惑したが、つきかえすわけにもいかず、そっと受け取る。

「これ…」
「お前に似合うと思って」

 続く言葉をなまえは失った。
 女物の、櫛。
 わざわざ見立てて買ってくれた。
 いくら疎くてもわかる。…それは友人の範囲を逸脱した好意だ。

(、わたし、に?)

 頬に耳に血が上る。
 先日の買いだしの一件で、手を握られたときに酷似して、それよりもっと抑えきれない熱。食満の顔を見ることができないまま、手の中の形をなぞったとき、ふと、脳裏をひっかくものがあった。


 この模様。細かな傷と使いこまれた手触り。


 感触に覚えがある。どこで?どうして?ぽこりと湧きあがった疑問はほころびかけていた記憶を伴い、少しづつ形を作っていく。
 学園に来るよりも前のこと、祖父の掌にひかれ走ったあの日よりももっと前、乾いてやわらかな掌、薬のにおいと陽だまりのぬくもりと、笑っているあのひとは…。
 どくどくと胸をならすのはつい先ほどまでの熱情ではなく、もっとつめたく重い感触だった。闇の迫る時間で良かった。自分はどんな顔をしているだろう。こんな時に不安な感情なんて見せるべきじゃない。声が、平静に聞こえていればいい。

「でも、こんな高価なもの」
「いや、露店で譲ってもらったんだ。なんでも…」

 かいつまんで聞いた来歴は、なまえの予感を確かなものに変えていく。
 流れた沈黙をどうとったのか、食満が口を開く。

「俺、休暇が終わったら仕官先を決めようと思うんだ。小国でも力をつけ始めているところをいくつか聞いている。…あと数年したら、必ずもっと強くなってみせる」
「食満…」
「だから、待っててくれないか」

 呼吸の仕方を一瞬忘れた。
 そんな言葉をききたいわけじゃないと、胸の奥で誰かが叫んだ。
 じゃあ、何を望んでいるのか、なまえは自分でもよくわからない。
 嬉しいのは事実だ。
 頷きたくてしかたないのは、本当だ。
 けれど待っていることなんてできないのだから。好意が嬉しいなら、大切に思う相手なら、自分の人生に巻き込むことがあってはならない。断ることはなまえが自身に許した唯一で最大の愛情表現だった。
 
「食満、」

 両手をきつく握りしめる。きしむくらい爪を立てれば、胸のいたみがやわらぐ気がした。

「ごめんなさい。…これは、返す」

 息をのんだ気配、顔を見ることはできなかった。
 傷つけている自覚は充分にあって、それはそのままこの胸をもえぐっていく。
 笑え、笑わなければ。

「わたし、好きな人がいるの。だから受け取れない」

 言葉がするすると出ていくのを他人事のように聞く自分がいた。
 ああ、もうとりかえしがつかないなと、しずかに唇をつりあげる。
 それでいい。嘘ではない。
 だから、



「だから…ごめんね」



 泣くわけにはいかない。
 差し出された手を払ったのは、まぎれもなく私。