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 金楽寺へ向かった食満を見送り、なまえは医務室に足を向けた。貴重な薬種をいくつかおいているため、毎日の見回りと在庫照会は保健委員の重要な仕事だ。休暇中の現在はなまえと、休暇を繰り上げて明日には戻る予定の伊作が行う。
日に数回の見回りに決められた時間はない。特に用はなかったが、塀がくずれていた件もある。こまめに出入りするに越したことはないだろう。

引き戸を開けてすぐに違和感を感じる。
棚…は荒らされた様子はない。張り巡らした糸もきれず、鍵はかかったままだ。
部屋の中には机がひとつ。 耳を澄ます。外に虫の声。自分の呼吸だけがきこえる。

(…、机!)

正確には引き出しだ。
取手にはたいてあった白粉が乱れている。中に入っている物に金銭的な価値があるとは思えないが、少なくともなまえと伊作にとっては重要なものだ。そして中身を他人に漏らした覚えはない。…室内に他に人の形跡はないのに、一点だけ、まるでそこに物があることを知っていたかのように。


 瞬間、体が動いたのは無意識の賜物だった。


 懐に手が伸びて目潰し用の小袋をつかむ。体をひねりながら腕を抜きかけたとたん、耳の下にごく小さな痛みが走った。

「良い反応だねえ」

 くすりと笑った声は低い。成人した男の声だ。聞きおぼえがある。たどりかけた記憶は押しつけられた刃の感触が中断した。

「こっそり出ていくつもりだったんだけど、私もヤキがまわったかな。まさか見つかってしまうなんてね。それにしてもいい動きだったよ」
「…御冗談を」

 握りしめた目潰しをゆっくりと手放す。とす、と音を立てて落ちたそれはあっけなくわれ、中から砂が流れ出た。両手を上げたところでようやく解放される。男が動くとかすかに異臭がした。南蛮渡来の膏薬のにおい。

「タソガレドキ忍軍の組頭ともあろう方が、学生の研究に、どのような興味をおもちですか?」
「おや、覚えていてくれたのかい」
「…伊作から時折、話を伺いまして」

 それ以上に、包帯だらけの異様な風体は忘れるほうが難しい、となまえは胸中に付け加える。全身におよぶ熱傷からは薬と傷のにおいがするというのに。あらためてみれば、こんな狭い室内で気がつかなかったことのほうがおかしいものだった。

「伊作君ね。そうそう、あの子のことだから卒業用になにか研究でもしてるんじゃないかと思って見に来たんだよ。案の定だったねえ」

 なにが案の定だ。
 金銭的な価値はなくとも、渡るところに渡れば多少面倒な事にはなる。薬学の知識の集約と、忍びの仕事に携わるものであれば一度は考えるであろうこと。雑渡の手の中にあるのは未だ原石、夢物語を書いた御伽草紙に近いものだが、読み解ける物に筋書きを知られることは避けたい。

「それはまだ途中です。お返しいただけますか」
「君たちみたいな子供が研究するものではないよ」

 苦笑を含んだ声に頬に血が上る。と同時に足元が揺らいだ。そう、たぶんこの研究が完成したならば「一番活用できる立場」にあるのは、このタソガレドキ組頭だ。

「…お返しください」

 睨みつけた視線と声が震えないようにするのでなまえは精一杯だった。ただそこに立っているだけ、隙などいくらでもありそうな姿だと言うのに、男の周囲には奇妙な威圧感があった。おそらくこれが、かいくぐって来た死線と日常の苛烈さの結果なのだろう。

「やれやれ、これじゃ私が悪い大人みたいじゃないか」

 動けないのを知ってか知らずか、男は飄々と肩をすくめた。
 手にした冊子を机の上に戻す。かわりに竹筒をとりだして口をつけた。

「今日のところは返しておこう。しかし途中と言う割にはよくできていたね。あとは実験と結果の確認だけというところか」
「それは…」
「『薬毒による苦痛の緩和』…安楽な死の薬なぞ、一体何で試すつもりだい?君はともかく伊作君は自分を披検体にするわけにはいかないだろう」
「ッ」

 雑渡がさらりと口にした言葉に、全身の血がひいた。



 『きみは、ともかく』。


 …このひとは、わたしが薬毒で死なないことを、…!?


「まって、あなたは!」
「みょうじとは多少ゆかりのある間柄でね」

 竹筒を持ったまま窓枠に飛び乗って雑渡が振り返る。逆光に見えない表情と、笑いながらも感情を伺わせない声。

「…知りたい?」 

 なまえには頷くことも否定することもできなかった。包帯を外した男の口がゆっくりと動く。息が上がり、膝が震える、それなのに視線ははずせない。忍の心得などどこかに消えてしまった。雑渡の空気に飲まれ、ただ託宣のようにその言葉を聞く。

「私は伝説の虚実に興味はないよ。不死にあぐらをかいた強さなど忍軍(うち)にはいらない。もし君がタソガレドキにくるならば、私の気配を読んで動いた実力を評価して迎え入れよう。今ここで学ぶよりも多くを与えられる…君にその気があるならね」

 ―――休暇が終わる前に抜けておいで。


 雑渡が去るのを待ちかねていたかのように蝉が騒ぎ出した。夏の熱気が戻ってくる。白昼夢のような時間が消えていく。
 けれど。

「…タソガレドキ…」

 研究書のおかれた机上に視線を落とす。
 忍の言葉など信じられないと言ってしまえばそれまでだ。
 だが、あの男の強さは。
 不死にあぐらをかいた強さなと不要、と断言するには充分すぎる。そして、…あれほどに強くなれたなら他者の牙におびえることもない。


 傾きかけた日差し灼かれながら、なまえはひとりたちつくしていた。