幻燈
月がおそろしく冴えている。
明かりを灯す家はない時刻だというのに、青白い光に照らされて足元は明るい。北辰が瞬く。
冷たい夜風が頬をかすめた。
「そこにいるな」
もう良い頃だろうと判断して食満は立ち止った。
数間離れた木立が揺らぎ、小柄な影がひたりと忍び出る。
「…気付いてたの」
「まあ薄々。お前じゃなかったらどうしようかと思ってた」
溜息のようになまえが苦笑する。
彼女の右手には苦無。頭上の月明かりを跳ね返してきらめいた。
「追手が私なら困らないんだ?」
今度は食満が苦い笑いを噛みしめる番だった。
問いには答えずなまえに歩み寄った。得物を握る右手に掌を重ね、引き寄せる。抗わなかった彼女の体はあっけなく食満の腕に収まる。危ない、と胸のあたりから小さな声が聞こえた。
傷つけることを危険だと言いつつも、そのための道具を手放せないのが、まさに今のなまえがここにいる理由なのだろう。俺も踏ん切りがつかねえな、と食満は目を伏せた。
「食満。私がここにいること、表向きは誰も知らないの」
ぽつりとなまえが呟いた。
「組頭はもしかしたら…ううん、十中八九感づいてると思う」
「だろうな」
あっさりと食満も頷いた。
「正直泳がされてるとは思ってたし。だいたい、あのひとが気付かないようならタソガレドキも終いだ」
「でもまだあなたを追えって指示は出ていないの」
体を離してなまえが見上げてくる。泣きそうな顔をしていた。
「帰ろう、食満。今ならまだ間に合う」
馬鹿なことを言う、と食満は思った。
最初からこうするつもりでタソガレトキへ来た。なまえとの再会も半分誤算半分計画的なものだったし、採用した忍組頭とて薄々目的は理解しているだろう。ここまで泳がせて刺客をつけないというのなら、むしろ食満の離反とその先の事態を利用するつもりでいるのだろう。
目的を遂行した食満に、もはやタソガレトキへ戻る理由は何もなかった。
あえて挙げるとするなら、心残りはただひとつ。
「…お前だって」
真白い頬に手を添えて、食満はなまえの瞳を覗く。
「俺がどうするかわかってるんだろ。なあ、一緒に来いよ。俺と一緒に抜けて、…できたら、その、そのまんま」
「…そのまんま…もうちょっと言い方ないの?」
「仕方ねぇだろ、…あぁくそ」
一度天を仰いだ食満は、耳まで赤くして早口に言った。
「俺の嫁になってくれ。所帯持って子供育てて墓の下まで一緒に来てほしい」
色気も何もないような求婚の言葉に、なまえは笑った。
笑いながらぼろぼろと泣いた。
やがてとうとう笑えなくなって、うつむいて、肩を震わせた。食満はただ待っていた。
「…ごめ…っ、ごめん、ね。わたしっ…嬉し、かった…、でも」
やがて切れ切れに告げられた言葉に、食満は表情を変えなかった。
予想していたことが起きたという諦念だけがわずかに瞳をよぎっただけだった。
「そっか」
なまえは何度も首を横に振った。
嬉しかったの、一緒になりたかったの、夢みたいだった、ほんとうなの。
小さい声でささやかれるそれらは、皆過去形だった。
「いまさら仕方ないけれど、もし、色々やり直しがきくなら、私今絶対『お願いします』って言ったよ。食満のお嫁さんになりたかった。ずっとこっそり思ってた」
「…そういうこと言われると色々持たないんだが」
吐息だけで笑ってなまえは顔を上げる。
濡れた頬で、赤い眼尻で、月明かりに透き通った瞳で、まっすぐに食満を見上げた。
「抱いて」
こういうとき女は強かだって、誰か言ってたよなあ。
他人事のように食満の中で誰かが言う。
いいのか?そんな時間はあるのか?こいつは俺の敵になると宣言したばかりなのに?
妙に冷静な声は食満留三郎という人間の忍としての思考だろう。すなわち理性。目の前のなまえの、震える両肩。ああ、こんなの見て理性なんてもんを握りしめてられる男がいるか、畜生。
一晩だけと忍を捨てた指が細いうなじに触れる。
襟を割って柔らかな肌にふれたとき、彼女の手にあった得物が、音を立てて地に落ちた。