考えもしなかった、というのは嘘だ。
 むしろこうならない可能性など一握りにも満たないと、体中で知っていた。
 それでも、となまえは思うのだ。
 これが悪い夢であったなら。


 現実は赤黒く、灼熱の獣が轟々と吠えている。




「君は行かないのかい」

 背後から聞こえた声になまえの肩が小さく跳ねた。振り返ることはしない。遠い焔をにらみながら、いいえ、と呟いた。
「…ご存知、だったんですか」
「食満君が他軍の斥候だということを?それとも君たちの関係を?まあどちらにしろ君はこちらに残った訳だ。敵を城内に引き込んだあげく、その抹殺さえせずに」
 握りしめていた拳から力が抜ける。
 すべて筒抜けだったというわけだ。…予想通りではあるが。
「処分なさいますか」
「いいや、査定はまだもう少し先さ」
 楽しげに笑って、雑渡はなまえの隣に立った。
 耳元に包帯の感触。硝煙のにおい。言われることはわかりきっているが囁く声をなまえは拒めない。拒まない。



「『彼』を殺しておいで」


 だってこれが、わたしの選んだ場所なのだから。






「ひとりか、留三郎」
 タソガレドキ領から少し離れた山中、わずかに息を乱した留三郎に、しずかな声で仙蔵が問うた。答えはない。
「伊作は手筈通りに動いた。文次郎が先に向かった。私も行く」
 沈黙。
 ぬるい風が吹いた。  
「後には引けんぞ」
「わかってるさ」
 血を吐くような声、というのは職業柄仙蔵も何度か聞いててきたが、友人からそれを耳にするのは気まずいものだと知った。聞いてしまったことを少なからず後悔した。
 ここに駆けてくる途中、留三郎は何度引き返そうとしただろう。いや、もっとずっと前からその葛藤を抱えていたことを仙蔵は知っている。握りしめた希望にすがって、しかし今それは手の中にない。自分や仲間がこちら側にいる以上、もはや留三郎の選ぶ道はひとつきりだ。
「仙蔵」
「うん?」
「あいつ、俺を逃がしたんだ。追手がなかった」
 傷一つないのはそのせいか。
「そうか」
「もしやり合うことになるなら、俺にいかせてくれないか。未練がましいとは思うが」
 長く息を吐いて、留三郎はとうとうその言葉を吐く。
「…まだ俺は、諦めたくないんだ」





 タソガレドキ城の一室に伊作はいた。
 医師として与えられた部屋は、もうすっかりしみついた煎じ薬の匂いで、どこか学園の長屋を思い出させる。あれから何年が経っただろう。友人たちは皆それぞれどこかの城に仕官して、それきり音沙汰も絶えていた。
 一年前までは。
「入っておいで」
 障子をあける細い手。
 肉刺や傷で、同年代の女に比べたらけしてなめらかな様子ではないのだけれど、伊作からみれば綺麗な手だ。これまで何人の血を受けたか知らないが、やはり汚れてなどいない、手。
 困惑した様子でこちらを見つめるまなざしに、伊作は穏やかに口を開いた。
「どうしたの、なまえ」
「食満を、…」
 続く言葉も知っていた。
 だけど立ち尽くす彼女の様子をもう少し見ていたくて、遮らずに伊作は視線だけで続きを促す。
「…。ねえ伊作。最近殿の御加減が悪い理由、知ってる?」
 予想した方向から向きを違えた質問に、いよいよ伊作は笑いたくなった。
 ああなんだ、やっぱり彼女はわかってくれたじゃないか。
 おそらくあの組頭も気が付いているだろう。それでも彼はあえて自分を泳がせていたわけだが。ともあれ他の人間がおそらく誰も気が付いていない事実。
「さあ、僕は御典医ではないから、何とも」
「…脈拍が弱くなって、幻覚をみたり。…そんな薬、知ってるの。だってあの時一緒に研究したもの、痛みを止めるために致死量を正確にしらなくちゃいけないって…伊作、言ってたよね」
 なまえの半身は伊作の視界に入らない。
 その陰で彼女はいったいどんな武器を携えているのだろう。
「直接殿の傍に寄らなくたって、御典医殿の薬をすり替えておくことならできるでしょう?医者にはできなくても忍なら。…ねえ伊作、いつから、医者ではなくなってしまったの…?」
 こらえきれずに笑いがこぼれおちる。
 吐息のようなそれを聞きとってなまえが半歩下がる。構える。
 鋭くなった視線に何の動揺もなく、伊作は唇をゆがめた。
「病巣は取り除かなくちゃね。君のところの組頭殿も、それを知ってて僕を咎めないんだよ。放っておけばいずれ内乱がおこる。医者は医者でも、診るのが人の体ではなかっただけさ」
「…詭弁を」
「さあ、それは君が信じられる人に訊ねてみたら」
 そんな相手はもういないはずだ、一番放したくなかった手を解いた君には。
 言外の意を読んで、なまえが目を伏せた。睫毛の先が震える。
 感情を殺すのが忍であるなら、今目の前にいるのはくのいちでなく、ただの女だ。学園を卒業して以来見ることのなくなったそんな様子に、伊作は初めてやわらかい表情をした。
「今からでも戻る気はない?」
「どこに…?」
「6年前、かな。君が学園を飛び出す前。僕たちが忍としてばらばらに仕官する前に」
 なまえはしばらく目を閉じていた。
 伊作は微動だにせず、ただ彼女を待っていた。
 やがてなまえがゆっくりと構えを解いた。
「そう、…」
 再び開かれたまなざしは、深い翳りで濡れていた。
「妙だと思った。伊作も留三郎も、それに二人の言い方からして他にも誰か仲間がいる。まさか全員同じ城に仕えてるわけでもないのに、どうして手を組んでいるんだろうって。…伊作、城仕えなんてしたくなかっだのよね。『そう思う理由』が『もう起こってしまった』から」
 伊作は何も言わない。
 無言のままに立ちあがり、懐に手を入れる。
「私も病理組織ね。皆の大切な人や居場所を殺した」
 なまえもまた新たに構えなおす。今度は姿勢を低く、攻撃に出るためのものに。
「でもね伊作、たぶん私、皆がいるとわかっていても、組頭の命に従っていたの。だから戻ることはできないよ。もう選んでしまったから」
「残念だ」
「うん、…ありがとう」
 視線がはっきりとぶつかった瞬間、二つの影が動いた。