15


「ただいま戻りました」

 庵の障子に向かって声をかけるも返答はない。
 傍らにおいた包みを見下ろしてなまえは首をかしげる。学園長はどこだ。

「…もう食満の方に行ってたりして」

 学園に戻って早々、食満は倉庫に走ることになってしまった。学園の周りをぐるりとかこむ塀に崩れた箇所があったのだ。守りを固める意味で塀というのは重要だ。放置して被害が広がってはまずいので修理は急がねばならない。
 しかしそもそもは『頑丈な塀』が『どうして壊れたのか』が問題なのだ。簡単に壊されるようでは侵入者除けの意味がない。場合によっては非常にゆゆしい事態である。
 いつまでここに座っていても仕方ないが、さて、どこから探したものか。

「あ、なまえお姉ちゃま」
「おシゲちゃん」

 とたとたと庭をやってきた足音になまえは瞬いた。

「ちょうどよかった、おじいちゃまから伝言でしゅ。『手紙が来たので金楽寺に行ってくる、泊るから夕餉はいらん』って」
「金楽寺?困ったな、お団子買ってきたんだけど、この暑さじゃ悪くなりそう」

 小柄な少女はにっこりと笑って学園長室の障子をあけた。
 ついでに勝手知ったる様子で座布団にちょこんと座る。こんな振る舞いをしても彼女を咎める者はいない。休暇中の今、生徒と言う肩書を脱げば、シゲは正真正銘大川の孫娘なのだから。

「大丈夫でしゅよ。『おつかいものは食べて良し』って言ってましたから。おシゲとおやつにしましょ」
「せっかくだけど私は…」
「だーめ!お姉ちゃまったら六年生とばっかりお話ししてるんでしゅもの!お休みくらいはおシゲのことも構ってくだしゃい!」
「じゃあ後で」
「い・ま・で・しゅ」

 結局なまえはこの強引なおねだりに折れた。
 大川のもとになまえが来たのは六年前。当時三つの年を数えたばかりのシゲは、突然あらわれた『遠縁の娘』によく懐いた。他に兄弟がいなかったこともあり、なまえを姉と慕った。身を寄せたばかりのころはひとつ屋根の下で暮らしていたので、実際なまえにとっても打算などない幼いシゲは一番心を許した『妹』だった。
 以来、シゲにはどうも甘くなってしまうらしい。
 他の後輩だったら何を言われようと置いていくのだが、引っ張られるままに学園長室の座布団に座っている。

「じゃあ、このお団子一本分ね。ご飯の支度の前に、用事があるから」
「お姉ちゃま、今日はお仕事?」
「日雇はお休み。少しお手伝いをね」

 お姉ちゃまは働き者で偉いでしゅね、と大人びた口調でシゲが言うのを笑って聞いて、なまえは串団子をひとつ手に取る。

「この暑さの中、今まさに頑張ってる働き者もいるからね。お土産にしてもいい?」
「どうぞ。しんべエしゃまがいたらおシゲが貰うんですけど、特別でしゅよ」

 もぐもぐと口を動かしながら頷くシゲをなまえは感慨深く見つめた。
 幼い子供と思ってきたが、そういえばシゲにはいつのまにやら『恋人』というものがいるのだった。見ている分にはまるでままごとの延長のようだが、年齢が年齢なのだからそんなものだろう。本人たちが幸せいっぱいなのだから言うことは何もない。
 食満の言うとおり福富屋に嫁ぐ日も近いかもしれない。

「ほんとに仲がいいねぇ」
「なまえお姉ちゃまも恋の相談があったらおシゲに聞かせてくだしゃいな!女の子の秘密はちゃーんと守りましゅから」
「恋の相談?私じゃ縁がないよ」
「六年生の先輩方は格好良いってくのたまの皆が言ってましゅよ。なまえお姉ちゃまは先輩方と仲が良いんでしょ?好きな人はいないんでしゅか?」

 まさか、と笑おうとして、最前手を握った相手を思い出す。この手の話題は藪蛇だったかもしれない。一瞬とはいえ不自然な沈黙に気付かない、シゲの幼さになまえはこっそり感謝する。

「どうかな?」
「じゃあ理想の殿方はどんな方なんでしゅか」

 理想、という言葉になまえはうーんと天井を仰いだ。

「自分より強い人。常に理性的な判断ができる人。いざって時に何か切り捨てるのにためらいがない人。忍びなら、理想はやっぱり共倒れにならない相手でしょう」
「…それってお姉ちゃまの理想じゃなくてくのいちの理想でしゅよね?」

 模範解答をしたつもりが誤魔化しをあっさりと指摘された。小さくとも女は女、恋話の類では、幼いなどと侮ってはいけないようだ。
 そうだね、と苦笑してなまえは手元に視線を落とす。串団子一本分の時間は終わった。立ち上がり障子の桟に手をかける瞬間まで、それを口に出していいものか迷った。シゲを信頼しないというわけではなく…言葉にしてしまうことをおそれた。


「優しくて、大事なものを全部守ろうとする人、かな。でも私は忍でいたいから、理想は理想のまんまで終わらせるつもりだよ」







 シゲは学園長室に残った空の座布団を見つめる。
 お姉ちゃまはああ言ったけど、本当は忍なんかじゃなく、嫁様になりたいんじゃないかしら。好きな人はいないなんて言ったけど、本当は想いかわした人がいるんじゃないかしら。だとしたらとてもひどいことを聞いてしまったのかもしれない。

「…お姉ちゃま、」

 終始笑顔だったけれど、『妹』だから知っている。なまえが袖を握る癖。与えられる課題に陰で泣きながら傷つきながら必死で取り組んでいたこと。たった一度の偶然で、垣間見たのは普段の穏やかな顔とは全く違う鬼気迫る姿だった。
子守から売り子に用心棒まで、日雇いの評判はどれもいいときり丸に聞いたことがある。なまえならどんな職に就いてもそれなりにやっていけるだろう。何も修羅の道を選ばなくても生計はたつだろう。
優しい姉が優しいままでいてほしいとシゲは思う。なまえの『理想』の人が本当にいてくれて、この現在ごと姉の笑顔を守ってくれればいいのに。