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 総領屋敷を出ると道のむこうからゆらゆらと明かりが近づいてきた。与四郎が目をこらす前に明かりのほうから声があがる。

「与四、迎えさ来たぞ」
「なんだぁ巳之助兄か」

三人の兄の中でも一番歳の近い巳之助は、大柄な体躯に似合わず穏やかな青年だった。跡取りの立場からか妙に醒めた性格の長兄、早くに独り立ちして村を出た次兄の分まで、幼い頃から与四郎の面倒を見てきたのはこの三兄である。
仲のいい兄の姿にほっとしかけた与四郎だが、すぐに眉間を皺だてた。
里に戻ってすぐ、この総領屋敷を訪れたのだ。ましてその道行はリリーからの直接依頼…密命。今日戻ることも誰にも伝えていない。

「…んで兄ちゃん、ほんとは何の用だ?」
「はは、ばれちまったなー。寄合で酒が出たもんで、酔い覚ましにな」

にこにこと笑う表情はそのままに巳之助は与四郎の背中を軽く押す。促されるままに歩き出した与四郎の耳に、打って変わった低い声が届いた。

「簡単に背中を許すんじゃねえ、死ぬぞ」

冷水を浴びた思いで横目に見た兄の顔は普段どおりの穏やかさだ。唇を動かさずに囁く言葉だけが鋼のように重い。

「俺の独断でバラすが親父も兄貴もおめーには隠す話だ。これから聞くこた家帰るまでに忘れろ。…総領家の仲違いを聞いたことはあるか」
「婆ちゃんと嫁さんが仲悪いんだってしか…」
「まあ表面を大雑把に言えばな」

 ざっくりとした与四郎の言葉に巳之助は目を細めた。

「跡取り息子が死んでからずっと総領家は揉めている。次期候補は2人。嫁様の子である兄、それから妾腹の弟。普通なら跡取りはどっちだ」
「普通なら兄、だろうけど」
「そう、兄…龍之介のほうは体が弱い。…だが弟もそこまで覇気の有るほうじゃねえ。同腹の兄も病で死んでる。今は元気でも、先の保証はねえ」
「んなこと言ったらどっちにもきめらんねーべ」
「だから総領が無理を通したんだ。『後継者には喜三太を指名する』って」

 リリーがそれを公表した日のことは与四郎も覚えている。
 普段は内部事情などまったく知らされない子供たちまでもがそれを聞き、もともと総領家の子として浮きがちだった喜三太はますます集団から孤立した。正直なところ与四郎からみれば、喜三太はただ老婆の言動に振り回されたようなものだった。どうせ襲名はもっとか先のことだ。なぜ今頃そんなことを強調するんだ、と。
 里の大人たちの苦り切った表情も、似たような理由かと思っていたのだが。

「…なんで『無理』なんだ?他にないなら仕方ねーことじゃんか」
「選択肢は他にもあっからだ」

 巳之助は小さく溜息を吐いた。
 
「息子が死んで、孫のうち一人は死んで、一人は虚弱体質。山村家はどうもそういう血筋らしい。だいたい総領だってとっくに引退してていい年だろ。仮に跡継ぎを孫のどっちかに決めたとしても、襲名まで存命できると思うか」
「あの婆ちゃんが簡単にくたばっかよ」
「ま、その通りだな。だが万が一そうなった時、誰が里を束ねるんだ。総領のことは信頼してっけど、だからって無条件にその家族に膝を折るわけにはいかねーべ。風魔を束ねるのは伊達や名前じゃねえ実力なんだから」

 反論の言葉は思いつかなかった。

「そーいう理由で、世襲制には反対意見が多かったんだ。ただ、実際山村が世襲をやめたとして、次に誰がアタマに就くかってとこで意見が割れて纏まれねえ。ただでさえ総領家のことでゴタゴタしてんのに、下手に言い出せば里が割れる。…そこで、龍之介を利用する案が出た」
「…傀儡にしようってのか!?」
「酷ぇ言い方だな。別に悪いことじゃねえよ、総領家が名前を重んじるならそれでいい、出来ない実務はこっちでしようって言ってんだ。利害の一致だろ」
「だからって、それじゃ、喜三太は」
「さっきお前も言っただろうよ。『普通なら兄だ』って」

 何かが違うと与四郎は思う。
 だが、それを言葉にすることができない。唇を引き結んだ与四郎の様子を知ってか、巳之助は感情の知れない口調で続けた。 

「錫高野家(ウチ)はずっと中立してきたが、さっき、いよいよ親父が腹括った」
「どこに」

 とっさに聞き返したものの予想はついている。巳之助の話しからして、龍之介を擁立しつつ世襲制から引き離していくつもりだろう。
 が、返答は思いもよらないものだった。

「どこでもいいってよ」
「…は?」

 どうも今日は間抜けな顔ばかりしている。思わず立ち止まりかけたのを小突かれ慌てて声を落とす。「腹括ったんじゃねーのかよ」
「括ったさ。親父は龍之介を推すって公言したんだ。だが俺達兄弟は好きなようにしろってさ。ただし一人前になってから、な。だからお前にはまだ話さねー」
「…じゃあ錫高野家(うち)は…」
「勘違いすんな、親父は別に投げやりになんかなってねえぞ。『家を存続』させるためだ。一人でも勝ち組になりゃ血は消えねーからな」

 風魔と言う共同体の中で、錫高野家はそれなりに力のある『家』だった。それは昔から山村家に寄り添って共同体の身の振り方を判断してきたということだ。発言力…決断の正しさを以て続いた家が、こんな蝙蝠のようなことをしていいのだろうか?
 
「俺は兄貴についてこうと思う。総領家に任せきりにするのァ危ねえ」

 沈黙をどう取ったのか、巳之助は一段と低い声で呟いた。

「親父と兄貴と俺と、三人バラバラだと一番良いんだろうけどよ」
「巳之助兄」

 今度こそ立ち止って、与四郎は振り返る兄の顔を見つめた。
 父も長兄もまだ自分には話さないだろうという。にもかかわらず、巳之助は語った。そして今、もしも三人が三人、別々のところを選んでいたなら。
 後から進む自分は、どこを選んでも孤立しなかった。

「…俺は、一人でも大丈夫だから」

 いつか家族と敵対することになっても。
 その時に寄りかかれる『兄』や『父』がいなくても、歩いて行ける。
 巳之助が一瞬、無表情の仮面を脱ぎ棄てる。昔と変わらないまなざしは、弟の成長を喜ぶ感情と手放す寂しさをを半々に含んでいた。

「こんだけ誘ったのに、結局そっち側か」
「兄ちゃんと同じだべ?俺、嘉一郎が生きてる時から喜三太は弟だと思ってっから」

 笑った顔を引き締めて与四郎は「それに」と呟いた。

「あいつは良い総領になると思うんだ。うまく言えねえけど、だから死んだりしねえ」
「感情だけで決めんな…つっても聞かねーだろーな」
「…ああ」

 ぶつかりあった視線が火花を散らした、ように思えた一瞬。巳之助はまた感情の読めない笑顔を浮かべ、背を向けて歩き出す。 

「わかった。おめーがそこまで言うなら信じてみろ。卒業したら俺は手加減しねーぞ」

 卒業したら、という条件つきになるあたり、やっぱり巳之助は自分に甘い。くつくつとこみ上げる笑いをこらえながら、与四郎は頷いた。

「あ、そういや巳之助兄に聞きてーことがあったんだ」
「ん?」
「初恋ってどんなんだった?」


 数歩先で巳之助が盛大に転んだ。