文句のつけようのない晴天の朝、笠の紐を結びながら与四郎はそっとあたりを伺う。見送りに来たのは伊作と留三郎の2人。また明日、と言ったなまえの姿はなかった。

(具合でも悪いのか?)

「どうした、ぼんやりして」
「君や文次郎が朝までつき合わせるからだろ!ごめんね与四郎、休ませなくって…ほら留も謝る!」
「いや、こんくれーは何でもねーよ。慣れてっから大丈夫だぁ」

なんだかんだで六人と手合わせをして、特にこの2人とは随分打ち解けた。
 最初やたら気が立っていた留三郎も、打ち合ううちにすっかり昔からの友人のような感覚になってきた。結局、朝まで勝敗はついていない。楽しかった。

「んじゃな。何か用事見つけてまた来っから」
「おう。昨日の続き、楽しみにしてる」

名残惜しい理由はそれだけではなかったが、あまり詮索するのもよくない気がして、与四郎はそのまま門をくぐった。


与四郎の姿が見えなくなるころ、伊作は留三郎を振り返った。

「言わなかったけど…良かったのかな、これで」
「俺達だって訳が解らないのに説明なんてできないだろ」

 今朝、なまえに与四郎の出立を伝えようと下級生のくのたまに伝言を頼んだのだが、結局その子が「行けないそうです」と申し訳なさそうに戻ってきた。
 両手をあげてみせた留三郎にも、眉を下げた伊作にも、なまえの行動は理由がわからない。与四郎が探していることは気づいていたが話題にするのを避けてしまった。

「学園長先生に呼ばれた事と関係…あるって考えるのが自然だよなぁ。留、どこいくの」
「…あいつんとこ行ってくる」
「くのたま部屋に?」

 留三郎の肩に手を置いて伊作は首を振った。

「授業が始まるまで待ちなよ。なまえがそうそう欠席するとは思えないし、来ないなら本当に具合が悪いんだろう」

 留三郎は何か反論しようとしたが特に思いつかず、不本意ながら頷いた。

 布団も敷かない部屋の隅で、なまえは膝を抱えていた。日が昇り、明るくなっても動く気力が湧かない。
 先ほど来た後輩には悪いことをしてしまった。食満も伊作も怒っているだろう。昨日の様子なら与四郎とはかなり打ち解けただろうし。

「与四郎…」

無意識に口にした名前に眉をよせる。彼が、何故この学園に来たのか。昨晩学園長から話を聞いて唖然とした。

(「風魔がみょうじを寄越せと言ってきおった。個人の特定は出来んようじゃが」)

喜三太の祖母というその人からの文には、そんなことが書いてあったという。けして悪いようにはしないから、卒業後学園に留まるのでなければ、と。

 逗留できないことは知っている。
 一カ所に居続けることは危険だ。こうして所在が風魔に露見したように、いずれは学園そのものの敵を増やす結果になるだろう。六年の恩に砂をかけるような真似はしたくない。
 そうした代償をせおってまで風魔が自分を欲しがるのは何故だろう。悪いようにしない、という言葉を鵜呑みに出来るほどなまえは幼くなかった。

(どこかに売るか…それとも、たべる?) 吐き気がした。
 みょうじの血にまつわる忌まわしい噂は聞き知っている。生き血を絞って飲めば不死になるとか、骨を粉にすれば万病に効くとか。なまえ自身調薬をするから他の生き物からそうやって『材料』を得ることもある。
 しかし、自分達は人間なのだ。同じ種族にそうして食される謂われはない。ましてその風評にどれほどの信憑性があるのか、死なないはずのみょうじである家族は皆死んでしまったというのに。
 同時に瞼裏をよぎった影に涙が出そうになる。与四郎、喜三太…昨日の一件が全て仕組まれた物とは思わない。が、あまりに出来すぎている。
 喜三太が事の詳細を知っているとは考え難い。与四郎は…手紙を運んできたという彼は中身を知らないようだと学園長は言った。

(でも里に帰ったら?)
(いずれ私の事を知ったら?)
(『みょうじ』を欲しがるようになるの?)

 与四郎だけではない。いずれ卒業して各所に就いたなら誰もが可能性を持ってしまう。自分を標的にし狩りたてる可能性を。 入学した時からわかっていたつもりだったが、実際に事が動いたらこんなにも動揺している。常に平静であるはずの忍が。

(情けない!) 唇を噛んでなまえは顔をあげた。六年学んだことをやすやすと崩してたまるものか。六年を共に過ごした人達まで…今、疑ってなるものか。

(いずれ敵になるとしても、今じゃない。今は疑念なんてない。与四郎は…違うかもしれないけど…でも、でも皆は)
 祈りのように一度きつく目を閉じて、なまえは立ち上がる。制服に袖を通した時、すでに迷いの表情はなかった。