あいしているよ/紅炎(マギ)

 わたしがあなたを好きになったことは、けしてしあわせではなかったね。

 鼻で笑おうとして言葉に詰まった。
 ひとつくらい否定する理由があってもいいと思う。
 現実には肯定だけが限りない。
 造花のような女だ。鮮やかだけども生気がない。硬く張り詰めた女の頬を見つめながら、それは今ここで俺に口にする資格がある言葉だろうか。
 湯気の中に浮かぶ丸い肩が寒々しくて手桶に掬った湯をかける。たったそれだけのことに、なまえは少し驚いたように「ありがとう」と呟いた。
「やさしいのね」
「偶にはな」
 こんなものが優しさならなまえに与える男はいくらでもいるだろう。
 笑いもしない顔が少し和らいで、白い手が俺の首筋を撫でる。湯につかっても不思議なほど温まらない掌。
「わたし、あなたの事が好きだわ」
 少しの揺るぎもなく言ってなまえが俺の目をまっすぐにとらえる。
 向かい合って感じるのはただ彼女の小ささだというのに、躊躇わない視線に僅か圧倒された。気取られることが怖くて俺はなまえに手を伸ばす。引き寄せて胸におさめて、彼女がひとりのかよわい女であるということを、確認しようとする。
「なら、俺のものになってくれるか」
「いいえ」
 好意を語るのと同じ明瞭さで、なまえはきっぱりと拒絶を口にする。
 どうしても手に入らないことはわかっていたが、諦めきれずに俺はもう一度耳朶に囁きかける。
「俺はお前を愛しているんだ」
 やわらかな肢体がかすかに震えた。
 もう一押ししたら手に入るだろうか。
 このうつくしい造形を労せず俺の、俺だけの掌中に閉じ込めておける。予感ではない。希望でもない。事実である。
「…俺では、駄目か」
 さんざ迷って吐き出した言葉を自嘲する。彼女に決定権を与えるから駄目なのだとわかっているのに。手折れない。
 簡単に手折れるからこそ、咲かせ続ける方法が欲しかった。
 花を咲かせた水はすでに絶えた。そのまま枯れてしまうのが彼女の願いだったのに、優しさに縋って連れ帰った。なまえに対して陰で囁かれる雑言に、根と葉を与えているのは俺だ。
「白蓮はもういないわね」
 溜息のようになまえが言う。
「変わったのはそれだけだわ。わたしはあなたが好きだけど、」
「言うな」
 にっこりと笑ってなまえがもう一度俺の首筋を撫でる。
「残念なことに好きなのよ。嫌いならここを裂いてるわ。それならあなたもこんなふうに迷ったりしなかったし…」
「言うな」
 腕の中で小さな泡が割れるようになまえが笑った。
 わたしも早く向こうに行けたのに。
 聞こえないふりをして俺はただなまえの感触を確かめる。あの男とは違う、俺も彼女もここに存在しているのだと言い聞かせる。歴史を刻むのはそれを伝える人間だ。死者ではない。白蓮はなまえの未来にもう現れない。
 肩越しになまえが見上げるのは湯気に煙った天井か、その遥かむこうの星だろうか。
 奪い切れずに募った想いはひどく苦い。嫌えればよかった。愛さなければよかった。こうして俺達は互いを追い詰めていく。