異世界の金魚、バスタブを泳ぐ(アウレカ)
「帰って。はっきり言うけどあんた臭い」
久しぶりに再会した恋人を出迎える言葉がこれとはいかがなものか。しかも物凄い厭そうな顔でだ。自分だったら正直相手の容赦のなさに落胆するだろう。そして同じ強さで自分の臭いを自覚して辟易とするだろう。
だというのにそこに立つ男は相変わらずにこにこと笑っていて、しかもまったく気にした様子もなくこちらに向かってくる。
もしや聞こえなかったのだろうか?
「アウレカ、くさい」
「はっはーなんか最近よく言われンだけどさーなんでだろ?」
なんでだろじゃねえわよこの馬鹿。
いらっとした気持ちを包み隠さず私は、すぐ目前まで迫ったアウレカの胸に渾身の力でひじを入れた。ぐっとくぐもった呻きとともに巨体が崩れ落ちる。私は腕を組んでアウレカの頭の前に仁王立ちする。
「あんたが風呂はいんないからに決まってんでしょバイキン!」
「えっ酷くね?しょーがねーじゃん俺さっきまで風呂のない国にいたんだから。つかなんだなまえ冷たいんだけど気のせい?」
「気のせいじゃない。むしろ今まで思い至らなかったあんたの頭があったかすぎんのよ」
その脳天気なオレンジ頭を踏みつけないだけ私は寛大だ。
ふてくされたように唇を尖らせた男の前に、なるべくやさしい笑顔でかがみこむ。
「とっととシャワー浴びてきな、馬鹿アウレカ」
ソファにもたれてテレビを見ていると、ついうとうとしていたようだ。ぷつりと電源の切れる音にはっとする。
「あがったの」
Tシャツ姿のアウレカは黙って机の上の缶を振った。三分の一ほど残ったビールを一息に飲み干す。日に焼けた喉の突起物が動くさまに軽く見とれる。黙ってればほんといい男だ。私に限らずたぶん彼にかかわる大半の人が思っているだろう。贔屓目というのか弱り目というのかわからないところだけれど。
「ぬるいでしょ。新しいのもってくるから」
座ってて、と言おうとしたけれど続かない。
覆いかぶさるように長身が私をソファに縫いとめる。抱きしめられると息が苦しいなあと思いながら、私もまた同じように彼を抱きしめた。まわりきらない腕。
「会いたかった」
「うん」
「来れなくてごめんな」
「まったくだよ。でも許す」
ふふふ、と笑って顔をうずめる。
かぎなれたボディーシャンプーにまじって知らないにおいがする。
アウレカのにおいだあ、と呟いたら「臭いんじゃなかったのかよ」と苦笑した声が聞こえた。
「んー、お風呂はいらないのは衛生的にどうかと思うわ。そっちの国の習俗は知らないけど、こっちは身体を極力清潔にするのがマナーみたいなもんだし、それは私もアウレカもお互いもともと持ってた価値観でしょう?」
「まあな」
「風呂のない国に行くのも結構だけど、ちょくちょく風呂のある国に帰ってこればいいんじゃないのって思うのよ」
抱いていた腕から力が抜けると同時に、両肩をつかんでアウレカが私の顔を覗き込む。
黄緑色の瞳にあるのは驚きと呆れだ。
子供の悪戯を見つけた親みたいな。
「つまりあれか、…要するになまえは寂しかったってこと?」
馬鹿アウレカ。
にやにやと笑い出した両頬をつまんでひっぱる。
筋肉だるまでもどうにかひっぱれるもので、いひゃいいひゃいと言いながら笑ったままのアウレカを、私はしばらく眺めていた。
「あーいってえ…」
赤くなったところをさすりながらアウレカは床に胡坐をかいて座る。
「風呂についてはできるだけ検討しとくわ。んでさあ寂しがりのなまえちゃん、俺からも一個提案あるんだけど」
「その不本意な呼び方改めるって条件付きで、どうぞ」
「結婚しねえ?」
「え?」
そんな軽いノリで尋ねるような事だっけ。
結婚。
誰が?アウレカと、私?
「嫌じゃないよな。よし、んじゃこれ嵌めて。はい左手出して」
茫然としている間にアウレカはあっというまに私の左手に細い指輪をはめ、満足げに笑う。
自分の左手もかざして「おそろいー」とか言って。
「…アウレカ」
「ん?」
「なんで急に…指輪なんていつから持ってたの」
「指輪は今回行ったとこで綺麗なのあったから買ったの。んでいつか渡せるかなーと思ってたんだけど、おまえがさっき『帰ってこれば』っていうからさ。びっくりするじゃん、俺がこれから『家族になってください』って言う前に、もうおまえんとこが俺の家になってんだもん」
日に焼けた大きな手が私を引き寄せる。
再度、すぽりとアウレカの腕につつまれて、私は今度はその首に腕をまわした。
耳元に唇を近付けてささやく。
「お風呂、いつでもぴかぴかにしてるからね」
んじゃもっかい入ろうぜ、とアウレカは、待ちかねたように私の服をはがしにかかる。
セレブレイトな雰囲気がだいなしだ。
少しくらい空気読みなさいよ馬鹿、と耳朶に歯を立てて私も笑った。
お湯を一杯に張ったお風呂で、つられた魚は新婚最初の餌にありつくとしよう。