別辞、愛する人よ(六道骸)
逃避行がもうすぐ終わろうとしている。
思えば無謀で、あまりにも幼稚で、ここまで続いたのがほんとうに奇跡だった。計画もろくろく立てずに警備をかいくぐり、抜け出して、三つの月をふたりで眺めた。
コンクリの壁に背を預ける。
ひろすぎるキャンバスに、スプレーで大書きされているのは、皮肉にも手錠の意匠。荒くなった息を抑えようと苦心する。
前触れなく、長い指が顎にからむ。決して丁寧とは言えない扱いに、冷え切った皮膚がぴりりと感覚をとり戻した。視線の先に見慣れたはずの異色の瞳がある。見とれていると唇にやわらかいものが束の間ふれて、また離れていった。
「後悔してますか」
「どれを」
「僕とここにいることを」
ほんとうなら今頃あなたは婚約パーティーの会場にいるはずでしょう?
こんな場所ではなく。
「聞きたい?あなたが言うなら、私も言ってあげる」
ほとんど笑いながらわたしは柔らかいぬくもりをもう一度重ねる。
今夜だけだと知っていた。
いまはこんなふうにキスを繰り返すことができるけれど、一度離れれば二度と触れられないだろう、彼とは。
それでも彼は綺麗な顔に綺麗な微笑みを浮かべて、いいえ、と答える。お互いに一度も口にしていない言葉がある。残された時間は少ない。
「…手を」
「何?」
「手を、繋いでもいいですか。少しだけ」
「礼儀正しいなんて珍しい」
「じゃあ遠慮なく」
冷たい、けれど私のそれより少し温度の高い指がからまった。右の手は出会いの握手。左の手は別れの握手。わたしたちは両手をかたく繋いで互いの瞳をのぞきこむ。もうすぐ終幕を迎えようとしているのに、どちらも乾ききっていた。重ねる唇だけが濡れてせつなくなる。
たくさんの足音が聞こえる。
ここももうすぐ彼らに見つかってしまう。
「…もう少し、」
伏せた目線で彼は呟く。
私はうすくうすく微笑して、右手を先にほどく。
「骸」
足音が近づく。彼はまだ動かない。
「愛しているわ」
残った左手を一瞬強く握りしめ、長い指が離れた。
彼が闇にまぎれ、いれちがいに黒いスーツの男たちが現れる。
もう何も触れるものがない唇を、冷たい指でなぞってみる。
冷え切っていてわずか、彼のほうが温かだったと、わたしはようやく気づくのだ。