真夜中の食卓(墨村正守)


「俺、定職に就くことにしたよ」

 ある日突然やってくるなり、彼はそう切り出した。
 茶碗にご飯をよそいながら「よかったじゃない」と返す。たとえば彼が今来ているものが、ごくありきたりな感じのスーツだったりしたら、深夜だろうがなんだろうが、お祝い料理に腕をふるってみたりするのかもしれない。残念ながら彼の姿はどう見ても修行僧か何かで、着替える様子もないから、たぶんすぐに旅立ろつつもりだろう。
 ほかに言うこともないので無言で器を並べていく。

「…悪いな、いきなり押しかけてきて」
「電話もらってるから別に構わないわよ。で?」
「うん?」

 焼鮭を頬張りながら彼が目線を上げた。
 おだやかな表情から内面は読み取れない。いつものことだ。


「職種は聞かないわ、言いたくないんだろうから。で、私に何を言いにきたの」


 すこしの間があった。
 ささやかな深夜の食卓を一瞥して、彼はにこりと笑う。


「飯の後にね」


 大事なことほど後回しにしたがる。
 慎重というのか何と言うのかわからないけれど、いつものことだ。
 いつものこと、いつもと同じこと、繰り返し。(でも「定職に就くことにした」らしい)
 変化はいつだって最初は小さなところからはじまって、どうしようもないところまできてはじめて、私は茫然と立ち尽くす。それだっていつものこと。いつものことと言える程度の時間を私たちは共有してきた。
 だからたぶん彼が言おうとしていることを私はすでに察している。
 決戦の時はもうすぐ、あとご飯二口分に、お茶を一杯足したくらい。



「おかわりは?」
「もういいよ、ごちそうさま」
「あ、まって、今お茶淹れるから」



 ひどく単純で明快な覚悟だけ、ひとつ握りしめて私は彼の前に座っている。
 おそらくこれから別れの言葉を口にする彼へ、私にできる唯一の反撃は、ただあらんかぎりの力で抱きしめて、確信をもってこの決意をささやくことなのだ。