カナリヤ(twst/ジェイド・リーチ)

「そんなの駄目に決まってる!」


 肩で息をしながら叫ぶ様子から、あまり呼吸器の調子が良くないのだろう。
 案の定なまえはそのまま蒼白な顔でふらり、テーブルに片手をつき、崩れそうになるのを近寄って支える。
「冗談じゃないわ。私の人生に、あなたを巻き込むなんて」
「巻き込まれたいんですよ。ああ、いいえ、違いますね。…」
 椅子に座らせたなまえの体は少し力を入れたら折れそうだった。梳いた髪の色はいくらか褪せた。一年前より、一月前より、一日前より確実に衰えていくその様が恐ろしい。一瞬でも目を離したら消えてしまうんじゃないか。 人間も人魚も一点に向かい進むのは変わらないが、なまえの終点があまりに近すぎる。
 ジェイドは1つ呼吸をする間に慎重に言葉を選んだ。
「僕が貴方と共に歩みたいんです。あなたの人生を、僕にください」
こんな時ですがと前置きして、内ポケットから取り出すリング。なまえの顔が歪んだ。
「…なんで私なの…」
「貴方だから」
「あなたの未来はまだ、たくさんあるのに」
「だから、ですよ。『 これまで』だけじゃ絶対足りないに決まってます。夫婦という肩書きも欲しい。記憶に残すなら、これから先の全てを。なまえ、僕は強欲なんです。知ってるでしょう」
 震える左手をとって口付ける。




「結婚してください」




 異種族婚が認められる社会でも、法の縛りは確かにあって、それは一種の試金石だ。生活圏が大きく異なる種族であれば、主たる生活圏をどちらかに定めること。…水中で暮らす人魚と陸上で暮らす人間ならば、どちらかが故郷を捨てなければならない。
 ジェイド・リーチは人魚でありながら山を愛する「変わり者」ではあったが、二足歩行はあくまで一時的なかりそめの姿だった。学園を卒業すれば北の海へ帰り、水中で暮らし、連れ合いを見つけ、生きてゆく。
 なまえ・オーファンは人間として生まれ獣人の中で育ってきた。異種族との共生は良いにつけ悪しきにつけ慣れ親しんだものだが、どちらの種族も陸上に暮らすことに違いない。水中で生きることはできない作りをしていた。





 幾多の中から出会い、ありふれた唯一無二の恋をして、想いを交わして、春のこと。
 旅先に訪れた街には美しい石畳と白い建物が軒を連ね、鮮やかなターコイズブルーの扉と屋根が坂道を彩る。
 陽の明るい街を、手を繋いで歩いた。
 住民は漁にいっているのか、港の賑わいが遠くに聞こえる。
 知り合いの目が無いここでなら何も恥ずかしくないでしょう、とジェイドは囁き、それでも頬を薄紅に染めながらなまえは頷いた。
「いつか、ここで…」
「うん?」
「…また来たいですね。何度でも2人で、こうやって」
「そうだね。ここにも、ここじゃない所にも、たくさん行きたいな。知らない場所が沢山あるから、楽しみ」
 見上げた先でジェイドが綺麗に笑ったので、なまえは目を細めた。何か含むところがあって、それを見せたくない時に彼がこうやって笑うことを知っていたので。
「どうかしました?」
「…何でもないよ」
 前を向いてから、そのうち話してね、と穏やかに続けたなまえの頭に、立ち止まったジェイドはそっと口付けた。
 好きだと、いとおしいと、思う気持ちがたくさん溢れすぎて言葉にできなかったけれど…このまま2人でずっといられたらいいと、その選択をするまで海と陸の狭間のようなこの美しい街で暮らせたらと、夢みていた。
 …なまえが病に侵され、命の終わりが見え始めるまで。




 気だるい微睡みから目覚めると隣室から人の話し声がした。
体を起こそうとする、その動作だけで息があがる。体が内側から食い破られるようだ。夢と現をさまようばかりの日々でも、皮肉なことにその苦しさが現実だと知らしめる。
「あぁ、起きましたか」
 隣室からやってきたジェイドは、慣れた手つきで腕の装置から伸びる管の先、パウチを新しいものに取り替える。
「痛みは?効き目の強い薬も預かってるんです」
「ううん」
 体を支えながらゆっくりとおこし、背中にクッションをあてて。こんなことまでさせて、といつも思う。胸にわくのは感謝と罪悪感。どちらもうまく言葉にできないことが増えた。
「フロイドが来ています。ここに招いても?」
「うん」
「なまえに会いにきたんです。起きられてよかった」
「うん」
 伝えたいことはあるのに、言葉を口に出来なくて、かわりに笑う。それでいいと言うようにジェイドが頭を撫でてくれて、なまえは幸せに目を細める。
 本当はフロイドにちゃんと話すべきことがあって、それは絶対に自分の口からだと決めていたけれど、たぶんもう無理だから手紙を送った。それでも何もしないよりいいと思ったから。体が、頭が、まだ意志通りに動くうちに、と。
 どんな返答でも受け止めよう。
 できることがもう、それしかない。


 フロイドは一目見て、彼女の余命が長くないことを理解した。
「なまえ、ほら」
 焦点が合うような合わないような、ま黒い瞳がこちらを映しなまえは小さく笑ったらしかった。
 少しかすれた声で、久しぶり、と声を絞り出した。
「手紙、読んでさぁ」
 返事を書くのも面倒だったから直接足を運んだ。
 気が向いたからたまたま。
 でも、そうでなきゃ永遠に伝えられなかったのかもしれないと、考えた時に背中が冷えた。
「別にオレ、ムカついたり悲しんだりしねーしって、言いにきた。…そんだけだったんだけど」
 手紙では筆圧こそ弱いけれどいつものなまえだったから、まさか、こんなにも病が進行しているなんて思わなかった。
やつれたというより、肉をそいだというのが相応しい姿で、乾いた肌と枯木を思わせる濃密な病の気配、時折呼吸さえおぼつかないような状態に、正直なところ慄いた。人は短期間にここまで変わるのかと。
 それ以上に衝撃だったのは、そんな変わり果てたなまえに対して今までと変わらず…いや、かつてよりはるかに愛おしげに触れるジェイドの様子だった。兄弟だから、嘘がないことがわかる。瞳にうかぶ熱情は届いているのだろうか?
 ジェイドは、なまえに恋して焦がれてやまないのだ。
 今も。
「ありがと、なまえ」
「ううん」
「ジェイドが幸せそーでよかった」
「…ううん」
 言葉が無くなってもなまえの困惑や不安はちゃんとフロイドに届くし、傍らのジェイドが肩のあたりに手を添えると安らぎの気配がする。
 これが幸せの形だというのなら否定はするまい。
「なまえがわかんなくても、そうなの。だからオレ、もーいくね。山飽きた」
「送りましょうか、フロイド」
「いい…あ、やっぱ頼む。なまえは?」
「なまえ、少し1人で居られますか?ちゃんと戻ってきます。窓から見えるところまで」
「うん」
 壊れ物に触れる手つきで再びなまえをベッドに横たえ、
「結界(センサー)をつけました。何かあったらすぐ戻ります」
「うん」
 頬に小さなキスをしてジェイドが立ち上がる。
 お熱いことでとフロイドが茶化せば、新婚ですからと当たり前の顔で返された。







「1ヶ月後なら素晴らしいことだそうですよ。1週間でもおかしくはない」
 湖畔の小さな家を出るなりジェイドは告げた。
 思わず足を止めてフロイドは繰り返す。
「…1週間?」
「気力でもっているようなものだと言われました。…もう4日、全く飲食が無くなりました。薬の量も限界まで増やしました。それでも痛みが引かないなら、あとは意識を混濁させるより他はないと」
「ジェイド」
「尋ねれば否定されるんです。痛くないわけがない。眠っている時にあれほどうなされているのに。わかっているんです。分かってるのに僕は」
「ジェイド!」
 強めの口調で名を呼ぶと、身体中の息を吐き出して、ジェイドはゆるゆると下を向いた。
「…どうして彼女なんでしょうね。交換できるなら、どんな取引だって応じたのに」
 答えるかわりにフロイドは隈のういた目元をなぞって問いかける。
「後悔してる?」
「まさか」
 鏡合わせのように唇を釣り上げて笑った。
「なまえの全ては僕のものです。それが幸せで幸せで仕方ない。何億マドル積まれたってこの人生を選びました。ただ…ただ、それでも足りないと思うんですよ」
 強欲ですね、と 肩を竦めた兄弟にフロイドはある提案を持ちかける。
「なまえが苦しくなった時、絞めるのがジェイドなんだろ…ジェイドが辛くなったら、オレが絞めてあげよっか?」
 この湖なら誰にも見つかんねーし、ぎゅっとさ、と、天気の話をする気軽さで。
 ジェイドはいつものように笑顔で首をふる。苦笑すら美しいと思わせる整った表情。
「皮肉ではなく...心から貴方の優しさを尊敬していますよ、フロイド。ありがとうございます」
「そりゃどーも。で?」
「なまえの苦しみを長引かせているのは僕のエゴです。死んで欲しくないと願っているから。それなのに僕にだけフロイドの救いが約束されているのは…卑怯です」
「だから要らないって?」
「ええ」
 風が吹いて、2人の髪をなびかせていった。流れる雲が兄弟の顔に影をおとす。岩場から見上げる巨大な魚の腹のように。
「僕は死にません。フロイド。なまえが逝った後も生きています。信じてくれますか?」
「オレとは絶対会えないどこかで?」
 束の間、沈黙がながれて、フロイドは目を閉じる。
 揺るがないジェイドの表情を見たくないと、強く思った。
 陸で幸せになった兄弟が、幸せなまま思い出になっていくのが…いや、それでもたぶん、信じる余地があるほうが。
「…あー、もー、早く海に帰りたい。帰る」
「おやおや」
 転移魔法を展開させて、背中を向けてフロイドは片手をあげた。少しだけ変化の魔法を解いた、水かきと爪と鱗のある左手で。
「ばいばい、ジェイド。楽しかったよ」
見送るジェイドは切りそろえた爪と、少しあかぎれた肌の右手をふりかえす。フロイドの背中を見つめ、振り返らないことは知っていたけれど、それでも。
「さようなら、フロイド。どうかお元気で」
見えなくなってから呟いた。
それから、なまえの待つ家に帰っていった。
 地に2本の足をつけて、歩いて。