吐き出したいのは青(千日紅)


 私がいったい何のためにここにいるのか。
 何も知らずに留三郎は微笑み私を抱き寄せる。あの日からしばらくはこんなこと自然にできるような人じゃなかった。赤面して一人で慌てていた。わたしも多分にそういうところはあった。夫婦として暮らし始めて三カ月、ぎこちなかった空気がようやくほぐれている、かけがえのない今。


 
 私は一体何をしようとしているのか。
 抱きしめる腕と頬を寄せた胸の温度にまどろみそうになる。私に与えられた居心地のいい場所、きっと色々なものから守ってくれる場所。何も知らないのが私のほうであればよかった。だからせめて私は留三郎に隠し続ける。苦しませたくはないのよ、悲しませたくはないのよ。愛と呼べる程度にあなたを好きなのだ、きっと。



 留三郎の体が急に重みを増す。
 先ほどの食事に眠り薬を仕込んだ。三か月の観察で、最適な分量を割り出した。味もにおいもほとんどない薬だが、忍である人だから食事の異変にはすぐ気がつくかもしれない。三か月で少しづつ似た風味の偽薬に慣れさせた。自分の役目を忘れた日なんて一度も、一秒たりともなかった。幸せであればあるほど絶望することを初めて知った三か月だった。




 もたれかかる体を横たえて見下ろす。
 薬は効いているはずだ。念のために呼んでみよう、どうしちゃったの留、寝ちゃったの。…言いかけて唇は凍る。今、その言葉は計算でなく自然に湧いた。どうしてこんなときでさえ私は嘘を、嘘とも思わない嘘を重ねる。三か月の時間は私にも積っていた。愛と呼べる程度であった気持ちが、情で繋がってしまうくらいに長い時間だった。三か月。普通の夫婦ならまだようやく始まったばかりの時間。それを何の忌憚もなく信じていた。心が慣れていた。



 袖の下から剃刀を握りこむ。
 私が違うところに仕事をもらっていたら。あなたが私を見つけなければ。私とあなたがこんな風に繋がらなければ。億満の可能性で私はあなたにこんなことをせずにいただろう。でもあなたと所帯を持つ前に私はこの命を受けていた。それを放り捨てない程度、きちんとした忍なのよ。知っているでしょう。そういう私だから愛してくれたんでしょう。立場が違えば留三郎も同じことをしたはずだ。そういう人だから私はあなたが好きだった。結局私たちの愛なんて常識からは逸脱していて、そのくせ遠目に見る『普通』に憧れ続けた。







「留、起きてるでしょう」

「…なんでわかった?」

「あてずっぽうよ。…私の旦那様が簡単にどうこうできるとは思ってなかったけど、どうやったの?ちゃんと食事は食べたよね?」




 ぱちりと目を開けた留三郎が晴れやかに笑った。
 三か月、数え切れないほど見てきた表情だ。いとしいと思う。抱きしめたい抱きしめられたい。だけど、だけど、三ヶ月目のこの先を一緒に生きていきたいという願いは最初から存在しない。その欠落を留三郎は知らなかった、ふりをしていたのだった。
 欺いていたつもりの私を、さらに欺いて見せた人。優秀な忍者。彼の城から始末を依頼されるくらいに。私を愛してくれた人。私が愛した人。




「伊作に頼んで薬の特定と解毒剤の準備をしてた。…本当、たまたまあいつが遊びに来てなきゃどうしようもなかったよ。お前が留守の時だったから、まさかこっそり夕飯つまみ食いしてたなんて知らなかっただろうし」

「知らなかったわ。もう、子供じゃないんだからそんなこと…!」



 なんだかおかしくなって笑いがとまらない。
 しばらく二人で笑い転げて、涙をぬぐいながら私は訊ねる。



「じゃあ私しくじったのね、完全に」
「まだ決まったわけじゃないがな」



 淡々と留三郎は頷いて、短刀を抜いた。



「どうせ手ぶらで帰っても何かされるんだろ。だったら俺とここで片をつけよう。殺されかけて黙ってるほど俺も心が広いわけじゃないが、お前だって無抵抗で痛い目見たりはしないだろう?寝込み襲われるよりは正面切ってやり合うほうがいい。手加減はするなよ、後味悪いから」
「…ええ」



 留三郎と私の実力差では勝敗は目に見えている。
 怒りさえ見せない留三郎がおそろしい。その畏怖の分だけ私はこのひとのことが好きなのだ。私には届かない憧れだった。本気でぶつかっても簡単に私は殺されるだろう。それでいい。ここに至って本気で殺そうとするような女なら留三郎はきっと私に嘆き、軽蔑し、やがて風化させるだろう。それでいい。
 剃刀を捨てて私も仕舞っていた懐剣をとりだす。
 何の仕掛けもされていないことを確認して、留三郎と向かいあった。隙がない。揺るがない。ああこれじゃいくら待っても仕方ないなと頭の隅で思う。それならこちらから動かなくちゃ。足が地を蹴る。感情の分だけ三か月ぶりに体が軽い。こんな身は捨ててもいいから、この刃を突き立てればそれで、






「と、め」


「なんで」



 本当に、私の手は濡れたのだろう。
 留三郎の体が崩れたのだろう。




「どうして」



 私を返り討ちにするはずだった人は、その一瞬に全て投げ捨てて私の刃を飲み込んだ。





「留!?」
「言っただろ、心広くないって…」


 ごぼりと血を吐き出しながら、いつものように留三郎は笑った。


「置いていかれるほうが辛いんだ。知ってるだろ」
「…知ってる…だから、わたし…」
「お前が好きだ。死なせやしない。苦しんで生きろ」



 呪いの言葉なのか愛の告白なのか、どちらともつかない言葉を残して、留三郎は事切れた。
最期の最後の表情が演技だったのか本気だったのかはわからない。留三郎は優秀な忍だったから。だけど嘘は嘘と見抜かれない限り真実になる。判別がつかないのなら、私は、この三カ月に縋る。虚飾でも、その時間は確かにあった。
 逝ったほうより残されたほうが、憎まれたより愛されたほうが、辛い。絶叫しても引き裂いてもやわらがない痛み、その分だけ私は留三郎に愛されている。



 死ぬまで続く絶望だろう。

 死んでも終わらない愛情だろう。









 たぶん私は、幸せなのだ。