先生さようなら

「せんせい、先生…」
 しがみついてきた幼い背中をなでる。震えるそこに大丈夫よと言いかけて名前は口を結んだ。
 …大丈夫?どこが?
 状況は正しく把握しろと散々言い聞かせてきた立場だが、この一月あまり、己自身にそれができたとは言い難い。当初は疑いもしたが今となってはもはや、風聞に偽りがなかったことを認めるほかなかった。
 連鎖的に集まってきた子供達を抱きしめ、背中越しに声をかけ、名前はすっかり風通しのよくなった縁側越しに、赤い巨星を睨みつけた。
 戸板が残らず飛んで行ったのも、屋根瓦があとかたもないのも、全部全部あれのせいだ。…叶うことなら切り刻んで踏み付けてやりたいのに、渦巻く怨嗟など何の役にもたたなかった。

「無事か!」
「潮江先生」
 常態になった隈はいよいよ濃く、いくぶん削げた頬にも疲れは明らかだったが、熱苦しい雰囲気は変わらない。文次郎の姿に安堵して、名前は自分達の腰を示した。
「見回りご苦労様です。飛ばされてないか心配してたんですよ。はい、皆これ結んで」
 かき集めた紐をぎっちりと結んである。全員を一本に繋ぐのは、この強風で離れ離れになるのを防ぐためだ。
 文次郎は連れていた生徒たちの結び目をひとつひとつ点検し、最後に自分のものを結わえると、板の間にどかりと腰をおろした。隣にいた六年生がつられて引かれ、転びそうになる。
「こら文次、佐川のことも考えなさい!」
「その呼び方はやめろって言ってるだろう馬鹿もんが!」
「都合悪くなると『馬鹿』呼ばわりで強制終了するのいい加減やめたら?悔しかったら理性的な発言できない馬鹿に馬鹿って言って何が悪いのか説明してみなさいよ」
 ふん、と鼻をならして名前は車座を見渡した。
「みんなは駄目よ、こんな短絡的な大人になっちゃ」
 普段から生徒に畏敬と恐怖を半々にもって見られている文次郎だが、名前にだけはどうしても勝てない。口喧嘩のつど腹はたつが彼女自身を嫌いになれないのは、言われる内容にいちいち自覚があるからだ。反論せずに黙りこんだ文次郎を、下級生は不思議そうな、上級生は笑いをこらえるような顔でそれぞれ見つめた。
「全員いるな」
「…先生、」
 ひときわ小柄な一年生がおずおずと手を挙げた。
「もうみんな無事に帰れてるかなぁ。僕と同じ部屋の善吉、家が遠いから心配なんです」
 答える言葉に一瞬迷った。
 本当に短い時間だったが、ぽかりと開いた空白は全員の胸にしっかりと染み付いてしまった。凍ったような座の中で、突然「当たり前じゃない」と怒ったような声が響く。
「帰れてるわよ、もちろん!何のために先生方が全員いなくなったと思ってるの。いーい?長年人に教える立場の、実力派忍者十数名の送迎よ、どんな籠屋や馬借より間違いないわ!」
 最後はふんぞり返るような勢いでまくし立てられ、一年生は「そ、そうですよね」と一応納得したようだった。
「わかればよろしい。じゃ、あたし達、もう一度点検行ってくるわ。そろそろ危ないから皆は出ないように。佐川、紐を任せて大丈夫ね?」
「はい、先生方もお気をつけて」
「すぐ戻るからな。…行きますよ名前先生」
 部屋を出て廊下を曲がった瞬間、文次郎の頬に名前の平手打ちが炸裂した。
「なにやってんのよ」
 生徒を不安にさせるなと、先ほどの沈黙を詰る声。すまんと言おうとしたけれど、泣きそうな顔を見た瞬間何も出なくなってしまった。
「…なにやってんの、本当に…あたしたち」
 教育実習を終えて間もない、ようやく卵が孵ったような二人だった。
 他の教師達が次々に生徒達を送りながら帰宅する中、せめて帰宅先のない子供達は自分達が預かりますと志願したけれど、実際問題としては他に何もできなかったのだ。
 家が遠い子供達を引率した教師は、それでいいのか、と最後に問うた。刃物を懐に隠しもち、親元に着く前に「その時」を迎えたならどうするのか、きっぱりと決めていたその教師を責めることなど誰にも出来はしないだろう。少なくとも名前にも文次郎にも無理だ。彼ならば不安も恐怖も感じる前に逝かせてやる技量があったが、自分達には何もないから。
「…せめてさぁ、一人にしたくないって思ったのよ」
 ぽつりと名前が呟いた。
「だって怖いじゃない。守ってくれる父親も抱きしめてくれる母親もいないまま、あんなもの見てたら。親御さんが彼岸で待ってるなら、そこに送るまで代わりに保護するのも教師の仕事かなって」
「…そうだな」
「でも正直あたしもあれが怖いし、先生方ほどの覚悟もできないわ」
 笑おうとして失敗した顔で、名前は文次郎を見上げた。
「愚痴ってごめん。ちょっとあたしにも喝入れて」
「馬鹿、お前に手なんか上げられるか」
 代わりにそっと抱きしめると「馬鹿文次」とくぐもった声が返ってきた。
「怒ればいいのに、こういう時に」
「お互い様だ。お前もこういう時に甘えればいいんだよ」
 そうやってお互いの体温が行き来して、なんとなく安心したような気持ちになる。
「いいじゃねぇか、一緒にいるだけで。俺はおまえが残ってくれて、最後に二人でこんな仕事ができて、十分幸せだ」
「馬鹿…せめてこのくらいしてから言いなさいよね」
 華奢な手が襟首を掴んで引き寄せたと思うと、目を閉じた名前の顔が至近距離に見えて吐息が触れる。何を、と言うより先に唇がふさがれた。柔らかい感触に、溶けるんじゃないかと文次郎は息を呑む。
 一瞬のあとに身を翻した名前を反射的に腕が追った。
「名前」
「何?」
 落ち着き払った声とは裏腹に、髪の間から見える耳が薄紅に染まっている。気がついた瞬間いとおしさが込み上げて文次郎は心の底から笑った。
 幸せだと、誰が何と言おうと俺は幸せだと、そう思う。
 こうして笑えるのだから大丈夫だろう。まったく恐怖が無いとは言わないけれど、隠し通して、抱きしめることはできるはずだ。名前にも、子供達にも。
「戻るぞ」
 腕をほどくと名前はつかのま眩しいものを見るように文次郎の顔を見上げ、頷いた。
「…文次郎」
「ん?」
「幸せよ。私も」



 とうとうやって来たその瞬間、暴風はあっという間にすべてをさらってしまう。
 結びあい離れまいと繋ぎあった手は散り散りになり、反発する力に引かれた紐も着物もちぎれ飛ぶ。気圧の変化で頭が割れるようだ。耳はとっくに壊れているのだろう。目の前に広がる破壊の一方で圧倒的な静寂がのしかかる。
 最後の一人を両側から抱えるように抑えていた名前と文次郎の体も、木の葉が舞い上がるように空へと吸い込まれていく。
 痛みも息苦しさも堪え難いのはほんのひと時だった。最後に無明の闇に変わる刹那、文次郎と名前の手は確かに触れあっていた。


 幸せだと、思ったのだ。



 理想も使命も後悔も、感情さえもすべてを飲み込んで、星は地上へと降りて来た。