繋ぐもの

隣で眠る小平太が寝返りをうつ。その気配で目を覚まし、しかし穏やかな寝息が少し離れた場所にあることにほっとする。お世辞にも上等とは言えない布団だが一人が入るには充分な広さだ。小平太の布団はもう少し広い。二人で入るには少しばかり狭かったが、こうして見ると随分大きかったのだなと思う。
 一つ布団で眠らなくなってもうすぐ一月になる。
 部屋数があるわけではないから、殿上人のように「寝所をわかつ」わけにはいかなかったが、こうして距離をおいて眠るのは新鮮だった。夫婦になって五年、ずっと隣にあった温もりが今は遠い。
 自分の体温にぬくまった布団の中、名前はうつらうつらと目を閉じた。







 最初に気がついたのは小平太だった。

「名前、最近おかしいぞ」

 井戸の横で口を濯いでいると、食事をしていたの小平太がいつのまにか後ろに立っていた。背中におかれた手が熱い。鬱陶さを感じて名前の口調は知らずつっけんどんになる。
「…ただの暑気あたりです」
「昨日も吐いてただろう?大丈夫なのか?」
「仕事はちゃんとしてるでしょ。皆が皆、暑さ知らずのあんたとは違うの」
「私だって暑いものは暑いさ」
 悪態も気にした様子のない小平太の涼しい顔にますます腹が立つ。
「それに、」
「まだあるの?」
「名前、月のものがしばらくないだろう」
「、!?」
 あんまりと言えばあんまりな内容に、腹立ちより恥ずかしさが勝って名前は開きかけた口を閉じた。においがしないから変だと思ったんだ、私は鼻がきくんだぞ!などと聞こえる気がするが、もう隣にいるのは大型犬だと必死に念じてみる。
(そういえば…いつから?前が確か…)
「隣村の婆さんが昔、取り上げ婆をやってたらしいぞ。早く行こう!」
「早くって、ちょ、何してるの?」
「私が背負ったほうが早いからな」
 大袈裟にしないでよと必死に断って、でも結局途中で待ち切れなくなった小平太が両手で抱え上げ、着いたときには件の老婆に笑われた。赤子がいるねぇ、といわれた時の、笑いすぎてくしゃくしゃになった、小平太の顔。







 ふわりふわりと温い夢の中を漂いながら、布団の中の名前は無意識に微笑んでいる。並べた布団で小平太が薄目を開く。









 腹が大きくなるのはあっという間だったが、こんなものかというのが名前の感想だった。
 この中に生き物がいる。腹に収まる程度の人間なんて想像がつかない。ぼこぼこと内側から蹴られる感触は日増しに強くなるが、痛いほどではない。喜びよりも不思議さに撫でていたら、ある日突然破水した。
「名前!」
 真っ青になった小平太にいつかと同じように抱えられ、隣村へ走る。間隔をおいて次第に強くなる痛みに呻くと強く抱きしめられた。








 ふう、とやわらかな息を吐いて名前が小さく動く。
「――。…」
 音を乗せずに唇が言葉を刻む。半身を起こそうとした小平太が止まる。
 凍りついたような一瞬のあと、半覚醒の声がささやいた。
「こへいた」
「うん」
「ゆめをみた」
 甘い砂糖菓子をなめるような、ただふわふわとしあわせな声。何の、なんて聞かなくてもわかる。先ほど呼んだのが誰なのかも。
「…寝ろ」
「うん」
 再びまどろみに沈む妻の横顔を見ながら小平太は、幾度となく繰り返された夜を想う。




 生まれた子供はしわくちゃの顔を真っ赤にして泣き叫んでいた。慣れない手つきで産湯につからせながら「赤子は本当に赤いんだなあ」としみじみ思った。こんなに小さくて手足なんか細くて、うっかり落っことしたら壊れてしまいそうなのに、とんでもなく力強い泣き声。
「こんなもんで驚いとったら先がおもいやられるわい」
 歯のない口をすぼめて老婆が笑った。ほとんど目が見えない為に引退したのだというが、産屋の外で聞く限り指導はおそろしくはっきりしていた。室内を整えた後、荒縄が一本つるされたきりのそこで、どうやって赤子が生まれたのか小平太は知らない。入るなと言われたのだ。血なら見なれているし、自分と老婆のほかに人手のないところで大丈夫なのかと心配だったのだが、あっさりと一蹴された。いわく、男なんぞ邪魔なだけじゃ。
「婆さん、本当にありがとう」
「礼なら嫁さまに言うんじゃな。血の道があがらんように起きておれと言ってある…。着替えさせたら行って来い」
 無力だったな、と小平太は思う。
 なまぐささの残る部屋で、名前はぐったりとしていたが、赤子の顔を見ると破顔した。
「生まれたぁ」
「うん。…頑張ったな。まだ痛いのか?」
「痛いけど、それより…抱かせて」
 ほぎゃほぎゃと叫ぶ赤子を名前が抱きとる。しばらく胸のあたりでもがいていたが、やがて乳房をくわえるとおとなしくなった。
「わ、ちゃんと飲んでる」
「名前、どうするかなあ」
「お七夜までに考えなくちゃね。お願いしますよ、お父さん?」




 ささやきあって微笑んで、中心にはやわらかな命があって、それは間違いない幸せであったのに。この子の一生を確かなものにする名前を、いくつもいくつも考えていたのに。
 次の日、ちいさな体は、突然冷たくなってしまった。



 数日、名前の嘆きはたいへんなものだった。
 おきて、おきて、ほら、のんで。
 すりきれた声とともに赤子を胸に抱く。冷えきった体をさすり、乳房を含ませ、温めようと何度も何度も試みる。それでも赤子は泣かない。動かない。
 おきて、おきて、ないてちょうだい、めをあけて。
 名前さえ無いままいってしまった子を呼び続ける。食べることも眠ることも忘れてしまった。
「なあ、もう、ちゃんと逝かせてあげよう」
「いや、だめ!」
「名前」
「もうすぐおきるわ。もうすぐ…だからこのこを、つれてかないで…」
 泣きながら名前もわかっていたのだ。だんだんと肌の色を変え、崩れていく赤子が、かえってくるはずもないことぐらい。
「名前」
 小平太はもう一度繰り返す。
「もう、これ以上は可哀想だ。…おしまいにしよう」
 返事は待たず、すがりつく指をこじ開けて、小さな骸を取り上げる。「まって」と空の両腕をさしむける名前に「いってくる」とつぶやいて、小平太は一人産屋を出た。
「仕方ないことじゃよ」
 ちょうど隣の家から出てきた老婆は、小平太の顔を見るとぽつりと言った。
「時折、いるんじゃ。生まれてすぐに還る子供が」
「…うん」
「嫁様を責めるでないぞ。よう頑張って、元気な赤子を産み落とした。あまり可愛いから、神様がもうしばらく手元に置いておきたくなったんじゃろう」
 名前がの体がも戻るまではここにいろ、と老婆は言った。若いものは皆出ていって、この産屋も使うことはないだろうからと。小平太は無言で頭を下げた。
 歩き出した背中越し、産屋のほうから老婆と名前の会話が聞こえる。
「お前さんたちはまだ若い。いつかきっと、赤子は戻ってくる」
「…戻ってくる…」
「そうじゃ。だから今は休め。次も無事に産めるように、養生するんじゃ」
「うん…」
 

 半年が過ぎて、名前はようやく以前の笑顔を見せるようになった。時折かなしい影を落とす時はあるけれど、己を傷つけてしまうのではないかと危ぶむようなものはもうない。小平太もまた同じように、働いて食べて眠る日々の中で、少しずつ、赤子のことを過去にしつつある。
 名前が神妙な顔で口を開いたのはそんな時だった。
「あのね、そろそろ、大丈夫だと思うの」
 布団に入ろうかという時、何が、とは言わなくてもわかる。こらえ性がないと学園時代からさんざん言われてきたけれど、一年近く、触れていない。我慢するのに当然自制を強いることはあったけれど、半年前の名前の呆然とした表情を思い出せば、小平太の方から言い出すのは憚られた。
「…まあそりゃ私は嬉しいが、まだ無理しなくても」
「ううん、違うの」
 きっぱりと首を振って名前は小平太の手をとる。夜着の上からそっとおさえたのは、かつて小さな命をはぐくんだ場所。
「私が、望んでいるの。…お願いします、もう一度、」
 震える唇をふさぎながら小平太は願う。
 何度でも迎えよう。そうして一緒に生きていくんだ。二人で、三人で。
 ―――だけどそれから子供を授かることはなかった。




「名前、」
 背後から低い声が呼ぶ。
 普段はそこぬけに明るい小平太の声が、夜闇で自分を呼ぶときだけやさしく低められるのが名前は好きだった。薄眼を開いて「はい」と答える。いつからだろう。そこに罪悪感を聞いてしまったのは。
 還ってしまった子を、もう一度この胎に導きたいという想いはずっと変わらない。たぶん一生捨てられないだろう。養子をとるという事を考えないでもなかったが、やはり重要なのは「夫婦の間に」子が欲しいという一点だった。
 ―――そんな自分を小平太はどんな思いで見ていたのだろう。
「そっち、行ってもいいか」
 あたたかな夜具の端を、名前はぎゅう、と握りしめた。
「どうぞ、」
 一瞬の外気に冷えた体が滑りこんでくる。
 背後からまわされた腕を拒むことはできなかった。かすかな緊張が伝わったらしく小平太がそっと苦笑した。
「嫌か?」
「…なんだか、どうしていいのか」
 本音だった。
 もともと夫婦の営み自体、どちらかというとお互いに好きだったとは思う。羞恥やそのほか色々含むものはあるけれど、相手の情を肌で感じるようなそれは、行為そのものとは裏腹にとてもやさしく落ち着くものだった。

 それが結果でなく、過程に変わった、あの日。

 睦みあうというには、たぶん自分たちは必死すぎた。抱きしめた互いより、肩の向こうの未来に手を伸ばしていた。間違えてはいなかったはずなのに、歪だった。
 祝言を挙げた日の気持ちはまだ褪せることなく、歳月を重ねてじんわりと体にしみわたっていく。ずっと共に生きていきたい。そう思っている。その願いは今も叶ったままのはずなのに、自分たちの間には、あの日から大きな一部が欠けたままここまできてしまった。


 だから星が落ちると知って、確かに安堵したのだ。


「なあ名前、わたしは、名前といられればそれでいいんだ」
「…うん」
「子供も欲しかったけれど…でも、仕方ないよな。もうどうしようもない」
 語りかけると言うよりは己に確認するような口調で小平太はつぶやいた。抱きしめる腕に少し、力がこもる。
「だから、このままくっついていてもいいか」
「何を言うかと思ったら…」
 それこそ幼子のような言葉に思わず笑ってしまう。ええ勿論、とうなずいて掌を重ねる。
「夫婦だもの」
 あまり自然に言えたので、名前自身も驚いた。もう一度繰り返す。
「私たち夫婦なんだもの。…父親や母親にはなれなかったけれど、…そうね、最初から何も変わってなんかいないんだわ」
 戸を叩く風の音が強くなる。
 もうそろそろ夜明けのころだろう。それにしてはいつまでも暗いままだ。これが終末の足音というものだろうか。彼岸が近づく。待ちわびたあの子にはもうすぐ会える。それなら、ふたりきりで身を寄せるこの今は。
「新床みたいだな」
 小さく笑って小平太が言う。五年前より確実に大人びた顔と声で、初夜に身がまえた妻にしたのと同じように、ぽんぽん頭をなでる。
「もう少し寝ようか。せっかく仕事も来客もないんだ。ゆっくりしよう」
「小平太。…その」
「いいよ。さっきも言っただろう、一緒にいられればいいって」
それに、と続いた言葉は外の物音に遮られて聞こえなくなる。
 腕の中で体を動かせば確かな鼓動を感じられた。…ここは安全だ。最後の最後まで、ひとりきりになる心配はない。




 もうすぐこの時間さえ終わるだろう。
 もしも、極楽浄土には行けそうもない自分が来世を望んでいいのなら、と小平太は思った。必ず名前と夫婦になって、二人で、いつかは子供や孫に囲まれて、死ぬまでこうして寄り添っていよう。何度でも、何度でも。





 音を立てて戸口が吹き飛ぶ。きつく抱きしめ合ったまま、二人はそっと目を閉じた。