最後の日には

 皮膚を裂く。
 弛緩していた身体がびくんと跳ね上がる。良い反応だ。しかし作業の妨げになる。
落ち着いたのを確認して刃を沈める。悲鳴とも呻きともつかない声があがったが伊作は気にもとめない。
 肉を開いて小さな鏃(やじり)をつまみあげる。細かな刃が無数についたそれからは、鉄錆に混じって微かに薬の匂いがした。患部をあらためて見る。多少爛れたような様子はあるが、炎症が酷い。放置していた期間を考えると毒のせいというよりは不衛生が原因だろう。一部はすでに壊疽になっている、このまま洗浄しても…
「周りを切り取って焼いてしまうほうがいい。大丈夫、僕は医者です。あなたを死なせはしない」
  微笑みかけたが男はもう無反応だ。脈はあるから死んではいない。熱のせいか。
  伊作は再び、患部に向き合った。

「まるで拷問ね」
 忍び寄った影が、背後からするりと覗き込んで言った。もう死なせてあげればいいのに。伊作は答えずに黙々と処置を施す。時折男の身体が何度か跳ね上がり、悲鳴があがり、すべて終わるまでにはしばらくの時間を要した。影はずっとそこにいた。
「終わった?」
「うん。名前も全部終わったのかい」
「なかなか重労働だったわ」
「…、そうみたいだね」
 差し出された手ぬぐいにも点々と赤が散っている。苦笑して立ち上がれば背中がばきばきと音をたてた。
「伊作、疲れた?」
「まあね。でも残り少しだし、やれることはやらないと」
 名前は少し途方にくれた顔をする。歩きながら伊作は饒舌に語る。
「あと半月って言ったっけ。馬鹿だよなぁ。こんな時まで戦なんかするのか!?って驚くよ。恨みも無念も何も、半月たてば全部なくなるっていうのにさ」
「…あたしには、あんたも同じに見えるけど」
「僕が?」
 名前の蹴った石は、まだ新しい骸にあたった。蝿が飛ぶ。
「半月たてば…って。だったら今死んでもおんなじでしょ」
「いいや違うね」
 決然と、しかし怒りはせずに伊作は首を振った。
「明日が来るのと来ないのは大違いだ。だからみんな、こんなにあの星を気にするんだろう?たとえそれが残り二日だって一日だって、明日も同じ景色を見られる確信があるのは、すごく幸せなことだと僕は思うよ」


 夕日が沈めば、今日使った器具の手入れだ。戦がなくなれば戦場医の仕事もなくなると思っていたが、その前に世界がなくなるらしい。休みがないって大変だわ、と名前はこっそり溜息をつく。
「明日の見立てはついたの?」
「一割…よくて二割かな。寒暖差がはげしいと体力がもたない」
 また明日、の幸せを語った口で、伊作はひどくあっさりと、この戦場で生きられる命をかぞえてみせる。その冷淡ともとれる判断力が、これまでどれほどの命を救いあげてきたのかを名前は知っている。幾多の戦場を共に駆けてきたのだ。心から同意できる計数だった。
「伊作」
「ん?」
「さっきの人、あたし片付けてくるよ。痛み止め切れたら危ないんじゃない?気が弱そうだし」
 伊作は頬をかきながら唸る。
「…やっぱり君も思うかい。実は僕も気になってた」
「せっかく治療してなんだけど、まだ手は使えるでしょ。痛すぎて自害しちゃいそうだもん。私がやってあげるほうが苦しまないわ」
 来た道を戻りかけて、名前はふと振り返る。
「ね、伊作。…あたし、ここにいる人たちくらい、明日で全員始末できるよ」
 言外の意を理解しながら伊作は笑ってみせた。
「それでも僕は医者で、生かすことが仕事だ。…君ほど優しくはない」
 痛みにのたうち、歯を食いしばって生きる『明日』を、望むものはどれだけいるだろう。
 皆ひとしい終点が見えた時から、名前は苦しみからの脱却を救いとするようになった。善意の殺戮を伊作は止めない。止めないが、100を殺す横で10を救うことをやめない。その10から8なり9なりがこぼれるとしても。
「…頑固者」
「お互い様だろ。人殺しが怖くて忍をやめたくせに、今更戻ってくるなんて」
 くっくっと笑って伊作は手を振った。
「先に戻ってる。冷えるから早くおいで」
 背をむけて歩きながら名前は唇を尖らせた。…頑固ではなく臆病なのだ、きっと。優しさではなく自己満足で、目の前で苦しむ人を見ていられない。伊作とはずっと近いままの平行線だろう。星がおちるまで。
「あれがなければあたしだって医者だったわよ」
 満月ほどの大きさに見える赤い玉を見上げて毒づく。帰ったら、最後の日ぐらいは休日にしたっていいんじゃないかと伊作に言ってみよう。近くに温泉が湧く場所があったはずだ。計画をたてて、二人で少しくらいゆっくりしよう。それくらいの楽しみはあったっていいはずでしょう。


 少なくともふたりにはまだ、明日があるのだから。