諦めの朝
南の空に凶星有り…
始めに気がついたのは役人だった。
過去の文献を探してもそのような位置に光芒があったためしはなく、天文博士をはじめ名だたる学者はみな頭をかかえた。
陰陽寮にて吉凶をはかれば凶と出る。何度占じても変わらぬ結果に、これは下手に噂を流しては危険との判断がくだった。情報はそのまま封じられ、一部では凶事の芽を刈り取りながら、星の動く日を待つ…はずだった。
土塀に身を隠していた仙蔵は、あたりに散らばるいくつかの気配を悟り、その秀麗な面をゆがめた。舌打ちしたいところだが音はたてられない。
だいぶ逃げ回ったが振り切るのは難しいようだ。こちらは一人、あちらは…三人だろうか。
(まるで犬だな)
ここまでついてきた追跡能力と、それに反して隠し切れない息遣いや足音を評し、仙蔵は静かに笑った。
猟犬が獲物を追い詰めて安心できるのは、それが兎や小鹿であった場合だ。無抵抗の草食動物と思って近寄ったものが、兎に化けた狼であったなら、犬達はどうするだろう。
(…生臭いのは本意じゃないが…仕方あるまい)
脚半にくくりつけた紐をほどく。取り出した小刀は刃が光を弾かないように黒く塗られていた。あらゆる気配を殺したままに仙蔵の影は静かに滑る。
やがて木陰からどさりと肉の落ちる音がした。
「随分な汚れ様ですこと」
若い尼僧の呆れ顔に、仙蔵は無言で視線をそらした。
「ご存知ないようですが、此処は寺というのですよ」
「御仏が慈悲深いのなら多少の汚れは許してくださるさ」
「…多少、ね」
皮肉をあっさりとかわされて、尼僧…桜恵は大きな溜息をついた。
あけきらぬ夜の薄明かりにもわかるほど衣服を濡らすのが血であると、錆びたにおいが語っている。もう一刻ほどすれば近隣の信徒がやってくる時間だ。仙蔵もそれを承知で転がり込んでいる。
「…わかりました。着替えを用意いたしますから、そちらの井戸で体をお流しくださいませ」
「恩に着る。持つべきものは知己だな」
桜恵は何かいいたげな顔をしたが、結局無言のままに立ち去った。おおかた最後の一言がひっかかったのだろう。
釣瓶をあげようとしたところで手にも血のりがついていることに気がつく。もう乾いてかさかさとした感触だが、縄をにぎれば間違いなく汚してしまう。近くに手拭いがあったので迷わずそれで手をふいた。やけに柔らかい手触りに仙蔵はまじまじと手拭いを見詰める。見覚えがあった。
「先日、親切な方からいただいた布ですわ」
振り返ると桜恵が挑むような笑顔で立っていた。
「とても良いものでしたので皆様に使っていただけるようにと。いつも本当に感謝のしようもございませんわ」
「…唐織の絹を手拭いにしてる寺など他にないぞ?寄進したものだから、今更私がとやかく言う権利もないが。赤ん坊のむつきにされないだけ喜ぶべきか」
「では残りはそのように」
「名前」
仙蔵があきらかに機嫌を悪くしたのを見て桜恵は嬉しげに笑った。
「わたくしは桜恵です。名前などという名の者は、この寺にはおりませぬ」
では着替えはこちらに、と桜恵が背を向ける。刹那、張り詰めた空気があたりを包み、たん、と乾いた音がひとつ響いた。
桜恵は微動だにしない。
その首筋をかすめるようにして、彼女の目の前にある木の幹には、深々と棒手裏剣が刺さっている。
「暗器の動きを気配で読む尼僧があるものか。まだまだ忍として使えるようだな」
「いい加減に…」
「私は嬉しいぞ」
「は?」
殺意さえはらんだ桜恵の声から怒気が抜け落ちた。
「使い道などどうでもいいが、お前の技術体術は努力の賜物だろう。それが消えないのは、良いことだと思うがな」
「…仙蔵は変わらないのね」
ふう、と肩の力をぬくような笑みをみせて、桜恵…名前は首を振った。
「仕事の誘いでないなら、いまさら何を話しにきたのかしら。あなたが何と言おうとわたくしは僧籍にあります。俗世に関わる気はありません」
本堂に入ると、磨かれた床がしっとりとした冷たさを伝えた。
「御住職は?」
「不在です。本山(おやま)から急な呼び出しがあって」
「…やはり…」
「何?」
いぶかしげな名前がすすめる座布団に座り、仙蔵は懐に手を入れた。
「私が仕事で奪ったものだ」
差し出された書状を一瞥して桜恵は眉を潜めた。慎重な手つきで受け取るのに、仙蔵は短く「開けろ」と命じた。
文句の一つも返らないのは紙の手触りがあまりに上質すぎるためか、花押の主に気がついたためか。
「これは…なに」
文面を追う表情が次第に色をなくし、指が紙端をぎりりと握った。
「赤い凶星って、空に見えるあれでしょう。この間お触れがでたばかりじゃない。一月のうちに再び去り行くものと天文学者が算じた、って」
「ならばこれを公表できるのか」
仙蔵は「衝突」の二文字を指す。
「依頼主も襲撃先も雲上人だ。お偉方の気紛れや迷信に付き合って口封じなどされてはたまらないと思ったが…」
鼻で笑って紙を弾く。名前は俯いたまま動かない。
「最後の日は次の新月。おおかた御住職の用向きもこれだろうよ。…星が落ちるなんて笑い話にも程がある」
「…何故これをわたくしに?」
「さてな。気が向いただけだ」
「これからどうするつもり?」
「どうもしない。騙りならただの笑い話、真であれば私が何をしたところで残りは皆等しく十数日だ。こんな仕事、全うする気にもならん」
名前が、桜恵がようやく顔を上げた。
「折角ですもの、出家でもしてみればよろしいのでは」
妙に晴れやかな面持ちで言われて、仙蔵は妙に落ち着かない気持ちになる。
これはあれだ、学園時代に悪だくみをしている時の顔だ。
「わたくし、常々やってみたいと思っていたことがいくつかありましたの。そのうちのひとつが転がり込んでくるなんて、なんて素敵」
「…なんだそれは」
「別に頭を丸めろとは言いません。有髪僧も珍しくありませんもの。でもあまり長くては修行の邪魔になります。さっぱりと切ってしまえばよろしいわ」
勝手に進んでいく算段に抗議しようとして、仙蔵は開きかけた唇を結んだ。
「…おまえは現俗する気はないんだな」
「今頃何を仰るかと思えば」
「わかった。鋏を持ってこい」
きょとんと見開いた目に、つとめて冷静を装う男の顔が映る。
「…どういう風の吹きまわし?」
「おまえがこちらに来ないなら私がそちらに行ってやるさ。私にだって人並みの夢や望みはあるんだ。ひとつ、好いた女と祝言を挙げる。ふたつ、その相手と死ぬまで添い遂げる。…これ以上言わせる気か」
驚いて、それからだんだんと頬を染め、まだ言葉の出ない名前に仙蔵は口の端をつりあげた。妥協に妥協は重ねたが仕方ない、ふたつめだけはどうにか叶えて見せよう。
「仲人はそちらの御本尊に」
星がおちる。
それならば世俗まみれの欲望でも、この現世を救わない御仏に、文句を言われる筋合いなどないはずだ。
名前はこの髪を鋏で切り落とし、自分は名前と添い遂げる。星ひとつにくらべたらささやかな願いだ。
欲しいものは掴み取る。
他でもない己のために。