手向けの花(さきにいくよ)



逃げる逃げる逃げる。


 息があがって苦しい。獣じみた呼吸を繰り返しながら先をゆく背中を追いかける。
 任務は失敗だった。が、勝敗はまだ決まらない。うまいこと追っ手を振り切って情報を持ち帰れば勝ち、捕まれば負け、すなわち死が待っている。


走る走る走る。


 耳元で煩い脈動。文次郎はまだ余裕があるだろうか。追っ手はどこまで来ているだろうか。いや、今は考える時ではない。迷いは足を遅くする。文次郎が不意に振り返る。どうしたの。問うべき言葉は足を貫く衝撃が打ち砕いた。


 とっさに歯を食いしばる。反射的にあげかけた叫びは飲みこんで状況を確認する。
 刺さった矢を引き抜くが、広がる熱は傷のせいだけではないだろう。人の気配はしなかった。あるいは毒に侵され感覚が鈍っているだけかもしれない。


「…罠か」


 見回した文次郎が悔しげに呟く。視線をたどれば薮の中にいくつか光るものがあった。紐を引くと打ち出される仕組みのようだ。私か文次郎かが気づかずに仕掛けを踏んだのだろう。


 文次郎を見る。
 文次郎も私を見返す。
 目があった瞬間に唇は勝手に言葉を作っていた。


「先に行って」


 文次郎が小さく息を呑んだのがわかった。負傷した仲間を置いていく意味を、私も彼もよく知っていた。
 私は笑う。文次郎は笑わない


「大丈夫。一人でも寂しくなんかないから」


 文次郎は無言で背を向けた。震えているのは私の願望が見せる錯覚だろう。
 聞こえた言葉も幻聴だったのだ、きっと。


「必ず戻るから、待ってろ」



 私は笑う。笑って頷く。


「待ってる。戦が全部片付いて、文次郎が暇を持てあますまで待ってるよ」


 ずっと。
 文次郎の背中が見えなくなっても、濡れた頬が冷たくなっても、ずっとずっといつまでも。







 やがて人の気配が近づいてくる。
 体中を灼く熱で私の体は動かない。殺気を隠さないくらいだから私の状態もお見通しなんでしょう、覗き趣味なんて最低ね。喉の奥で笑おうとして失敗、咳にもならない息が絡まる。


 誰かが私の襟首を掴む。
 尋問?拷問?どっちでも今の私には無意味だ。喋ろうとしたって呼吸さえ覚束ない。馬鹿だね、こんな毒を使うなんて。何を聞いたってほら、もう聴覚も、ね。白濁した視界に私は最後の幻を見る。
 一面の花の中に、文次郎が迎えに来る夢だ。痛みは遠く、どこかで戦の終わりを謡う声がする。私は起きあがり、歩きだし、やがて駆け出し…





飛びこんだ先は、ただ、温かかった。