7/はちみつ

 山本が蜂蜜をもってきた。火傷に塗れという。湯でゆるめて塗布すれば、殺菌と保湿の効果が得られるらしい。
 片手におさまる壺の蓋をとるや否や、雑渡は再びかぽんと閉めた。
「これは駄目だろう」
「そうですか?」
「こんな甘い匂いをさせたら蟻が寄ってきそうだ」
「…まあ、組頭の場合全身ですからねぇ」
 袴を畳む養女(むすめ)に苦笑され、雑渡は深く頷いた。蜂蜜まみれで登城したら…いや、主君の趣味はわからないから、意外と咎められないかもしれない。
 そんな仕事上の都合を差し引いても、良い年したオッサンから甘い芳香が漂うのはどうかと思う。
「甘味用にしちゃったら?」
「あ、それはもうちゃんと頂いてます。陳皮と煮出して蜜湯にしますから、夕食の時に。それから蜜蝋も机と箪笥に塗りました」
 山本もなまえも抜かりない。
 持て余した壺を見下ろして溜め息をつくと、なまえはくすくすと笑った。
「つけてから洗い流しても、効果はあるそうですよ。試しに手だけでもつけてみましょうか」
 いきなり酷いところに使用して副反応が強く出ると怖いのだと、なまえは言った。軽症な手や左半身ならば試すのに問題ない。
「今、用意してきます」
 するりと立ちあがってなまえが部屋を出ていく。着物は綺麗に畳まれていた。


 机の上に手拭いを強いて、桶に湯を張り、なまえは蜂蜜を自分の指にすくいとる。
「お手をお借りします」
 言われるままに差し出した手の甲の赤みの薄い部分から、骨に沿って指先までをゆっくりもみほぐされる。
「組頭、腕の外側が痛んだりしませんか」
「ん?」
「このあたり、こっているので…。筋が繋がっていますから影響が出やすいんです」
「あぁ、最近真面目に書類仕事したからかな…あっそこ痛いかも」
「肩こりのツボですねえ」
 くすぐったいと思いきやなかなか痛い。じわじわと圧し、しばらく留めて、ゆるゆると抜けていく。我慢できない痛みではなくなまえの力もけして強くないのだが、なるほどこれが的確なツボ押しかと雑渡は妙に納得した。自分で適当にやるよりずっと効果がありそうだ。
 手のひらまでひとしきり揉んだあと、なまえは湯加減をはかって頷いた。
「ぬるすぎるようなら仰ってくださいね。湯を足しますから」
「はいはい。後は自分で濯ぐから、なまえが先に洗いなさい」
「では失礼します」
「そっちじゃないよ」
 そのまま退室しかけたなまえを呼び止めると、きょとんとした幼い顔が振り向いた。
「少し手を暖めて。自分でほぐせないなら私がしようか?」
「ええと…え?いや、いいです!そんな、私は大丈夫ですから!」
「…良い歳したオッサンにされたら嫌だよねぇ、お年頃だもんね」
「違います!違いますから落ち込まないでください組頭!」
 うなだれただけでこんなに狼狽えてくれるとは。
 仁左どころか尊くんでさえ流すようになったからなあ、と下を向き頬を緩ませたまま考える。こういう時包帯は便利だ。
「…じゃあ父上って呼んで」
「は」
 蜂蜜だらけの両手をばんざいの形に上げたまま、なまえは再度目を丸くした。いたずらを見つけられた幼児のような姿に、顔をあげた雑渡は喜色を隠しもせずに繰り返す。
「父上って呼んでくれたら落ち込まないよ?」
「落ち込んでませんよね。どう見てもご機嫌ですものね」
 打てば響く早さで反論するなまえだが、しばらく目を合わせていると、だんだん視線が横にそれていく。
 そして。
「ち、…ちちうえ、様」 
 小声な上に尻つぼみという極めて聞き取りにくい声量で言うや、なまえはおそろしい早さで立ち上がり飛び出して行ってしまった。
「…おやおや」
 飛び出す前の表情もしっかり見ていた雑渡は嬉しくて嬉しくて仕方ない。本当に可愛い娘だ。自分自身、呼ばれ方ひとつでこんなに幸せな気持ちになれるだなんて思いもしなかった。
 桶から立ち上る蜂蜜の香りはひたすらに甘く、雑渡は抱いたことのない赤ん坊のにおいを思い描く。自分の知らないところで生まれ大きくなった娘の、戻らない過去をいとおしむように、もう一度水面を撫でて、笑った。