3.リセット出来たらと願う話

 及川が負けた。

 それ自体はそこまで珍しくもないのだが、奴にとっては人生賭けたも同然の試合だったとかで、落ち込んでいるらしい。
 失礼を承知で、部活ごとき、と思うのが本音だ。熱中するのが苦手な性分で奴の気持ちを理解するのは難しい。負けたって死なないしご飯は美味しい。誰の生活に迷惑がかかるわけでもない。そんなに落ち込むことか。もちろん顔にも言葉にもださないけれど。
 よしそれじゃあひとつ、牛乳パンをさしいれてやろうと思い立ったのは、母が珍しく深刻な顔で前段の通りの「徹くんの事情」を教えてきたからだった。ふざけた調子で他人を上から見下ろす幼馴染みのことを私は好かないのだと何度言っても覚えてくれない。確かに女子受けする容姿だが、私はすっきり一重の塩顔、それもできたらちょっときつめの顔が好きだ。ぱっちり二重と甘ったるい現代っ子顔はまったく響かない。奴から顔の良さをとったら、残るのは偏執的な努力と性格の悪さだけだ。


 努力の部分だけは尊敬に値するので、労いの牛乳パン、奮発して店頭陳列全部買い、8個。
 …たぶん私も浮かれていたのだ。自慢したい気持ちもあった。



 チャイムが鳴ったのは気がついたが、試合映像に集中していたかった。もう少しで何かつかめる気がする。もう無関係な細部まで覚えてしまうくらい再生した映像でも。
「…はいはーい」
 両親、不在。
 宅配便にしろ町内会にしろ、出ないことで言われる文句より短時間で済むだろう。重い腰を上げて玄関をあけると予想外に小柄な影が「こんばんは」とこちらを見上げていた。
「あっ、えっ?なまえ?」
「お見舞い。元気そうじゃん」
「俺俺に?」
 脳処理の追い付かない俺を見てなまえはため息をついた。久しぶりにうちに来たと思ったら何だこのリアクション。
「試合で負けたって?うちのお母さんが心配してたよ」
「…そこは嘘でも『私』が心配しとけよ」
「いやぁ、だって、ねぇ。中学の時の飛雄ちゃんショックに比べたら」
 試合相手がその飛雄だったと言ったらなまえはどんな顔をするだろうか。
「まあ…上がる?親いないけど」
「うん」
 よく考えたら高校生男女が夜に二人きりって結構な問題だが、なまえ本人が良いって言うんだから良い。どうせお互い守備範囲外かつ、自分に手を出さない男だと確信してるに決まってる。とんだ誤解だ。
「夕飯は?」
「もう食べた」
「じゃあ明日食べ」
「から、デザートだね」
 別腹だと言ったらなまえは信じられないものをみる目をしていた。高校生男子を何だと思ってるんだろう?あらゆる点でなまえは俺を誤解しているのだ。そして俺も積極的にそれを解こうとはしない。
「で、負けた俺にどーしてくれんの」
 卑屈になった訳ではなかったが、なまえは心底嫌そうな顔で「開き直るし」と呟いた。
「元気そうじゃん」
「それ二回目」
「やっぱ来るんじゃなかった」
「なーんでー?俺が元気なの、なまえが来てくれたせいかもしれないよ!」
「本当に?」
 真顔で見上げられて笑顔が固まる。飛雄といいなまえといい、俺のまわりは素直すぎるやつが多い。それがどんなに心をえぐるか知らないで。
「私がいると元気ならざるをえない?」
「は、何それ」
「音」
 言われて口を閉じれば、部屋からはかすかに試合の音声が漏れていた。イヤホンが抜けていたらしい。
「…あれは別に」
 なまえは何とも言えない顔で俺を見上げていた。随分身長差が開いた筈だが、なぜだかいつも目線が揃っているような気がする。そのなまえが、淡々と口を開いた。
「私はバレーボールよくわからないけど、及川が本気でやってる事は知ってる」
 なまえと俺の関係において、慰め合うような好意は、少なくとも中学以降なまえ側には存在していなかったはずだ。
「及川」
 ぐい、と腕を引かれる。
「終わったこと、考えるのやめな。もう充分」
 その瞬間にこらえようのないものが噴き出して、気づけばなまえの両肩をつかんでいた。
「充分、何。何知ってて言ってんの?俺が何をどうしてどう考えてるか、知ろうともしないなまえが、慰めんの?俺を?」
 …憤っているのは確かだが、自分自身でも「なぜ」の部分がすっぽぬけている。なんで怒ってる、俺。なまえは目を見開いたが怯えてはいないようだ。困った顔をしている。取り乱しているのは俺だけ。だせぇ。
「…ふざけんなよ」
 高い位置からコートを見下ろすように冷静な自分がいた。
「他人に決められることじゃ、ねぇよ」
 口に出した瞬間に猛烈な後悔が襲ってきた。
 他人じゃなければ許せるか?チームメンバーなら、家族なら、…恋人なら。
「…ごめんなまえ」
「あやまらないで」
 なまえがチームメンバーでも恋人でもないと、自分で認めてどうするんだ。塩を塗り込むにも程がある。なまえ、慰めてくれるんなら、そんな涼しい顔しないで、俺を見てよ。ずっと見ててよ。
「…及川はそうやって悪態ついてる方が通常運転で安心する。格好つけるのは彼女と数少ないファンの前だけでいいと思うよ。殊勝だとたまに寒気がするから」
「…なまえのそういう馬鹿正直なとこ好きだよ。ありがとう」
 意外そうに目を見開いて、なまえは少し笑った。
「やっぱり私来る必要無かったなあ」
「必要じゃなくても来てよ」
「悪いけど自粛する」
 なまえの笑顔が消えた。
 あ、この先は聞いちゃいけないやつだ。
「なまえごめんやっぱ今の」
「私、岩泉と付き合うことにしたから」
 叩きつける言葉を受け止められずに、俺はなまえの顔を凝視していた。


 
 及川が負けた。
 一般的意見を取り入れ、好意的に評価して残念イケメンだと思う。しかしながら私の好みはすっきり一重。加えてあまり口喧しくない男ならなお良い。
 小学校からのつきあいで、言いづらいから隠していたけれど、岩泉のことが好きだった。偏執的な努力家で、私が理解しがたいバレーへの情熱を持ち、時々家を行き来する間柄の、及川とまったくかわらない関係性の、岩泉が好きだった。
 何が違うと言ったら顔と口喧しさぐらいかもしれない。及川が本来、他人といる時の言動ほど軽薄でないことは知っている。自分のテリトリーに容易に他人を招かないことも、知っている。

 そういうとこ好きだ。
 必要なくても来いよ。

 まったく同じ台詞で口説かれて、遠回しすぎると怒りながら頷いたと言ったら、及川はどんな顔をするだろう。言わないけれど。これだけ顔色が変わった理由くらい察せる。嫌な女だ、私。
 可愛い女も優しい女もたくさんいる。こんな嫌な私一人手に入らなくたって大丈夫だ、及川なら。

「…ごめん、及川」

 勝ち負けで言ったら負けだ。
 及川徹は、負けたのだ。