2.もう直らない壊れものの話

 水が赤く濁るのを見下ろしていたら、優しい手が忍び寄ってきて視界を覆った。
「このまま潰してあげましょうか」
 侮蔑に満ちた口調の中に、ほんの少しの気遣いが感じられて、こんな時だと言うのに笑うことができた。それこそ彼に見られたら殺されそうだが。
「私が盲(めくら)になったら、利益はありますかね。私でもあなたでも、他の誰でも」
「さぁ?」
 心底あきれたように彼女は手を離し、私は着物の帯に手をかける。びっしょり濡れた生地は摩擦力を増してほどけない。苛々と息を吐いた。
「…ちょっと、まさか脱ぐの?」
「女性にこんな格好をさせておくのは…」
「馬鹿じゃないの」
 切り捨てる強さでサラは短く言った。ついでに蹴り飛ばしそうな勢いだったので、覆い被さるように庇えば、水溜まりをたゆたう黒髪が指に触れた。殴られ変形したけれど真白い横顔。女の化粧は戦装束やと教えられたけれど、剥ぎ取られた今でも、私は自分の下に横たわるこの人が敗者だとは思いたくなかった。
「止めなさい。もうただの『モノ』よ」 
「サラ」
 名前を呼んだものの、咎めるのかすがり付くのか決めかねて、そのまま沈黙した。労る口調が雨音を縫う。
「死体はモノ。割りきらなきゃやってらんないわ。経験談よ。たぶん間違ってない」
「ご教示、どうも」
 それでも従えないのだという気持ちを込めて見上げる。サラは相変わらずの不機嫌そうな表情だったが、一歩、後ろに下がった。
 懐から取り出した手拭いで亡骸を拭く。これから誰かがかけつけた時に、隠せないまでもできるだけ綺麗にしていてやりたい。雨に打たれても落ちきらない死臭を清める様を一瞥してサラは頷いた。
「…そうね。女同士の友情は、そのくらいがいいんじゃないの。弔いは身内の仕事よ」
「本当に容赦ないですよね、あなたは」
 倒れた人の身内のつもりだったと言ったら笑われるだろうから黙っておく。これから来る人にいつかそう思われたかったと言ったら殴られそうだ。
 馬鹿を言うなと。
(傍観したくせに)
 私刑のその場を影で見ていたのに手を出さなかった。殴られ蹴られ折られる時も近くにいたのに、したことはただ走って人を呼んだだけだ。
 止めに入ったら何かがかわっていただろうか。身元がばれるからなんて言い訳で、ただ暴力が自分に向かうのが怖かったのだ。
「…見殺しにした…」
「はっ」
 背後から腕を掴まれる。引きずりあげる力は強く、嘲笑さえも力に満ちていた。
「医者風情が落ち込む必要なんてないわ。その女はそれで満足なの。言ってもわからないでしょうけどね。弱いあんたには責められる価値もない」
 面倒そうに言って、立ち上がった私の顔を覗きこむ。蒼い目が燐の焔のようだ。
「さっさと帰りなさいな。あいつが来るわ」
 彼と顔を合わせる、謝罪する勇気すら無いことをサラはちゃんと見抜いていた。
 反論をもたない私はただ項垂れる。
 血はどこかに流れて薄まっていった。