1.唯一のつながりが消える話

 私と彼が初めて出会ったのは中学の入学式の日だった。晴れていたのは朝だけで、式が終わる頃にはジンクス通りの冷たい雨が降っていた。保護者と並んで帰る人たちのなかを、私だけ両手に袋をぶらさげて一人で歩く。仕事の呼び出しはどうしようもなかった。それでも式典前半には出席してくれたわけだし、むしろ忙しくさせたことへ申し訳なさを感じていた。
(寒っ)
 吹く風に震える。
 誰だ、人のビニール傘持っていった奴。
 雪ならまだよかったのに…。荷物の重さが濡れた手に辛い。これなら自転車で来ればよかった。
「みょうじ!」
 一瞬、他人のことだろうと思った。
 校区が変わったために話しかけられるような知り合いはいない。特に男子には、なおさら。
「みょうじなまえ!」
「はい!?」
 フルネームを大声で叫ばれてはねあがる。
 振り返るとなんとなく見覚えのある顔だった。
「……ええと、隣の席の」
「影山飛雄」
 怖い。
(私何かしたっけ?)
「ほら!」
 瞬間的にパニックになったが、影山くんが傘を差しかけてくれた事で完全に思考が停止した。
「え?」
「濡れる」 
 頭上の傘と影山君を見比べた。彼の手にはもう一本の傘。いかにも苛立ったように持ち手を押し付けてくる。
「これ、貸す」
「でも」
「入学式で風邪引くとかねーだろが、ボゲ」
「…あ、ありがとう」
 怒られているのか労られているのかわからないのだが、迫力に負けて傘を受け取ると、彼は何もなかったように去っていった。

 
 次の日、乾かした傘を持っていくと、影山くんは不機嫌そうに「おう」と受け取った。
 私はそれで満足した。してしまった。
 

 
 そして今、卒業。
 あんなに鮮やかなワンシーンが色褪せるなんていまだに考えられない。三年、ずっと考えられなかった。避けてきた。
 …私なにしてたんだっけ?
 振り返った歳月はただひたすらに今に繋がる「普通」でしかなくて、入学式の日だけが「特別」だった。
 あの日私は確かに恋をした。
 特別なその事実は存在していたのに、眺めていられればクラスメイトの一人でいいなんて勝手に決めつけて、そしてとうとう大した接点もないままだ。 
 どうしていままでなにもしなかったの。
 明日話せるなんて、なんで毎日そんな風に思ったんだろう。横たわる3年の時間は深く広く、ちっぽけな私の勇気ではもう飛べない。
 会話らしい会話もなかった同級生が、今更彼に何を話しかけられるだろう?
(影山くん、私、影山くんが)
 去っていく背中を追いかけられずに足がすくんだ。手にした証書が重くて、垂れ幕の文字が目にやきついて。
(あなたが好きです)
 たった一言を口にすることも出来ずに、三月の晴天と白い校舎をみていた。ひとりで、ずっと。