13/吐息

 熱い。
 苦しい。
 ぼんやりした頭が考えたのはそれだけだったが、五感はこの異常をきちんと把握していた。肌がひりひりと粟立ち、口の中が苦い気がする。体が少しずつ空気に溶かされているようだった。
 乾いた唇を半開きにして、溶け出してしまったものを取り戻そうとする。胸か喉か、ひゅうひゅうと音をたてた。
「水飲めるか」
 重い瞼をあげると留三郎の顔があった。
「起こすぞ。…寄りかかっていいから」
 背中に腕をまわされて、ゆっくり視界が持ち上がる。たったそれだけなのに体幹が定まらない。
 堅い胸にもたれながら椀の水をゆっくりすする。冷たいものが体の中に染みて息苦しさが薄らいだ。
 再び横になると、支えていた留三郎の腕が離れた。わけもなく泣きそうになる。
「ああ、どこも行かないから安心しろ」
 …何も言わないのにどうしてわかるんだろう?
 大きな手が瞼を覆って暗闇が訪れる。
 その感触と匂いに心から安堵して、知らず微笑みを浮かべながら、なまえは眠りに落ちた。
 

 鬼の撹乱とはよくいったものだが、高熱を出したなまえは撹乱どころではなくひたすら眠り続けている。それでも寝込む前に自分で熱冷ましを調合し「2日で下がらなかったら飲ませて」と言い置くのだから大した鬼である。次に目覚めたら薬の出番だろう。
 置いていた手をそっと戻し、留三郎は深々と溜息をついた。
 −−過信していた。
 今まで病気に縁がなかったからといって、これからもそうだとは限らないのだ。たとえばこのまま熱が下がらないまま儚くなる可能性だって…まあ、折り紙付きの薬のお陰で限りなく低いものではあるが。
「…頼むから早く回復してくれ」
 眠りを妨げない声量のつもりだったが、なまえが小さく呻いたのに慌てる。そうして少し苦し気な寝息に戻るまでを見下ろしていた。
(いや、わかってる、完全に俺が悪いんだけども)
 つらそうだから早く治ってほしい。それは当然だが、もうひとつ理性との戦いという理由がある。これはどうあがいても悪癖だと自覚しているし、気づいた時には自己嫌悪さえした。
 しかし、である。
(無防備すぎて駄目なんだよ!)
 男の性と言い訳するのもはばかられるが、紅潮した顔と潤んだ瞳、普段より抵抗なく自分を求めてくれる状況は、病でなければ「食べてしまいたいほど」可愛らしい。もちろん病に苦しむ者に無体をするつもりなど毛頭ない。が、先程のようにすがられた時、悪癖が疼くのも事実だ。
 なまえは他人との間で、見えない一線を越えようとしない。
 留三郎も、他人よりずいぶん近い距離にいるが、完全に気を許されていないことは理解している。生来の質と生い立ちによるのだろう。遠慮がちというのか。
 熱に浮かされてようやく人によりかかれる気性も含めてなまえが好きだ。それでももう少し甘えてほしい。そうされるだけの器量を持っていたい。
 もっと、もっと強くならなければ。
 学生時代とは違う強さと動機で思う。
 学園長しかり、タソガレドキの頭しかり。これまで彼女を庇護してきた人の強さと大きさに並ぶことはできなくても、せめて『絶対に居なくならないこと』を保証しなければ連れ出した意味がない。安穏が続くことを無条件に信じるには、なまえはたくさんの身内を失いすぎた。『あたりまえの家族』を築き直すのが自分の役目だと留三郎は決めている。
「…ごめんな。待たせてんのは俺だな」
 汗で張り付いた前髪を払い、手拭いをあてて、留三郎は目を細めた。
「必ず追い付くから、もう少しだけ待っててくれ」
 高熱にうかされない日常に戻ってなお、なまえが無防備に甘く見上げる未来がくるように。そのためには『あの人』に近づくほど強くならなければ。…故人に下心を見透かされたら呪われそうだが、大事なのは動機より結果だと言い訳をしつつ、留三郎は薬湯の準備に取りかかった