数年ぶりに会ったかと思えば、なまえの口からでたのは、従軍させてほしいという言葉だった。
「馬鹿おめえ、女連れで戦ができるかよ」
「くッだらねェ」
伝法に膝を割って、堅気の女とは思えぬ様子でなまえは一笑した。本当にまっさらな堅気の女が男のなりをして刀をぶんまわす事はなかなかないだろうから、これはこれで正しい作法かも知れないが。
「何を仰るかと思ったらまァ随分しみったれた事を。天下の新撰組副長殿のお言葉たァ思えねェ」
 軽快な江戸弁が懐かしいが、記憶の中のなまえとはまるで正反対だ。唖然とした土方の前で彼女はやおら刀を抜き放ち後ろ手に持つ。
「総司とそこまで見目が違うとも思えませんがね。女に見えるってンなら、間違えることのないように、私も流行に乗っかりましょう」
「あっ馬鹿」
 叫んだときにはばさりと音を立てて、長い髪が地面に落ちていた。
「これで間違いようもありますめェ」
「馬ッ鹿野郎…」
 怒鳴ろうと思ったはずなのに出たのはただの小言だった。なるほどこれでは鬼の副長も形無しな訳である。
「女の命だろうが」
「捨てる覚悟をお聞きになるんでしょ?」
 どうせまた生えますよとなまえは快活に笑ったが、落ちた髪を集める横顔はおどろくほど白かった。むきだしになった首筋も、なにもかも、人払いされ静まりかえる日陰の部屋の気配がした。
「まだ、足りねェと仰いますか」
 忠実な犬のような顔でなまえが見上げた。




 なまえの従軍にあたって土方が求めたのは、無理に男言葉を使うなという一点のみだった。すっかり風通しの良くなった後頭部をかきまわしながらなまえは兄に報告する。
「姉様たちが見たら卒倒しますよ、もう!…っふ…ふ、あはは!」
 憮然とした顔で話を聞いていた総司だったが、しばらくザンギリ頭のなまえを見つめ、とうとう堪えきれずに笑いだした。
「その頭!」
「そんなに変かな」
「変ですよ。似合わない」
「なんだか軽くて違和感はあるけど、自分じゃもう慣れちゃったよ。それよりせっかく『男らしくなった総司』を想定して練習したのに全然意味なかったのが残念」
「京に行って京言葉になるならともかく、江戸言葉になるわけないでしょう」
「…だって歳さん達とずっと一緒なんだもん。口調だって移る気がするから…」
「そんな今さら」
 不満げに唇をつきだしたなまえの顔真似をして、総司はうきうきと妹の顔を覗きこむ。まるで鏡合わせだ。
「何か言って言って」
 期待に満ちたまなざしに眉を寄せてサキは低く呟いた。
「うるせィ馬鹿野郎」
「っぶは!ーー……は、ッげほ、」
 吹き出した総司だが、すぐに激しく咳込む。後ろに回って背をさすりながらなまえはいよいよ眉間を皺立てた。
「…痩せたねえ、総司」
 姉達も仲間も、なかなか誰も触れないところを遠慮なく突く。一緒に産まれてきた仲というのは、自他の区別を曖昧にする。他人に言われれば突き刺さるかもしれない現実を、総司はごく自然に肯定した。
「…もう少し生きていたいなあ」
「何の為に?」
「もっと…戦って、役に立ちたい」
「誰がそれを望んだの。刀をとる人は総司の他にもいるでしょう」
「でも」
「でも?」
 少し沈黙してから、総司はぐしゃりと顔をゆがめた。
「そうしなきゃ、私がいる意味はない…」


 

 ようやく眠った兄の顔をしばらく眺めて、なまえはひとつ息を吐いた。
 総司の胸に巣くう鬼は怖くない。
 よしんば自分が喰われても、ああそうかと納得して死ねるだろう。同じ顔の兄が病んだときに自分も一緒に病んだのだ。二人で生まれてきたのに片方だけ残されるなんて全くどうかしている。
 それでもなまえはなまえなりに最良を考えた。
「…嘘つき総司」
 総司の、汗で張り付いた前髪を指で払う。
 こんなになっても兄は「苦しい」とは言わない。楽になることではなく、過去に戻る術を考えて夢見ている。きっと眠りの底でも刀をとっているのだろう。ぴくりと動いた右手を見て、苦笑する。
 土方に願い出た事…女のなまえが新撰組に従軍するということが、願掛けや奇行の類いでないと、たぶん総司だけがわかっていた。だから髪を切ったことは咎めても北へ行くことを止めたりはしなかった。
 行きたいだろう。
 生きたいだろう。
 死んで魂が駆けていけるなら、留まることができるなら、こんなにも怯えたりしないのだろうが、それを確かめることはかなわない。
 別離は嫌だ。
 再会の叶わないことがわかるから、その感情の深さがどれほどか、想像に難くない。怖い。苦しい。忘れられることではない。自分のいない世界で、残されたその人がどんな風に苦しむのかを考えると体が冷えるのだ。
 戦わなければ必要とされないなんて嘘だ。
 握れなくても立てなくても、いいや例え二度と言葉を交わさなくても息をしているだけで救われるかもしれない。そんな風に総司を好いている人を、自分以外にひとり、なまえは知っている。
 この体は同じものでできている。
 中身が少し違うけれど、よく似た何かだ。
「総司、ごめんなさい」
 身代わりになれればよかった。
 江戸の片隅で産まれて、犬子だからと養子に出され、結局諸事を経て実家に戻された身だ。国のため好いた人のために身を削って生きる兄と、比べるべくもない。
「ごめんなさい」
 起きているときに口にしたら総司は否定するだろう。困った人ですねと、優しい笑顔で、手をとって頭を撫でてくれるだろう。小さいときにそうしてくれたように。
 なまえは恋などしたことがないが、この世で一番優しく慕わしいのは、あの小さい手のひらだった。
 今は自分より大きく骨ばったのに、痩せた細い手。両手で包んで額を押し付ける。ぬかずきながら呟いた。
「総司。せめて近くに同じ顔がいれば、あの人少しは苦しくないと思うの。私があなたの代わりになれることは、そのくらいしかないし」
 ごめんね、となまえはもう一度口にした。



 片割れのぬくもりが消えた部屋で総司は静かに目を開いた。ありがとう、と呟いた声は、誰にも拾われずに溶けていった。