わたし山崎くんのかんがえてることわかるよ。小声で言われて一瞬呆けた。わたしの考えてることわかる?わからないでしょう。
 押し倒された状況で何を言い出すのか、婉曲な拒絶かと思えば、されるがままだった手が、明確な意思をもって烝の手をつかんだ。
「何や」
 別にぃ、となまえは子供じみた仕草で顔を背ける。白い首筋が薄暮に浮かぶ。それがどれほど男を煽る情景か、たぶん本人は全く意図していない。
「ためらわないでやっちゃえば?」
 白い指が甲を撫でる。その感触だけでまた疼く。情緒なんてなくても欲情するには充分すぎる。それでもまだ問わずにいられなかったのは冷静沈着を旨とする性分のせいだろう。
「ほんで、何がわかるんや」
「山崎くんほんと理性的だよね。こんなことするなら、なにも考えないでやればいいのに」
「ほぉ、つまり泣いて止めぇ言うても止めんでエエと」
「え!?いや、それは」
「理性なんぞぶん投げてええっちゅーんか、そらありがたいお申し出やなあ」



「…やだ、もう、起きたくない。これ、絶対、筋肉痛」
 息を切らしながら訴えるなまえの顔に、烝は無言で着物をかける。寝ていたい気持ちはわかるが刻限までに屯所に戻らねば何を言われるかわからない。布越しに、山崎くんなんでそんな元気なの、と恨みがましい声がした。
「…まあ、動いたうちに入らんしなあ」
「それ言ったらわたしなんて寝てただけのはずなんだけどな」
 諦めて起き上がりかけたなまえだが、見下ろす視線に気がつくと、あっちむいててよと頬を染めた。
「今さら?」
「今さらでも!」




「なんか最近さあ、なまえ大丈夫なのかな」
 鉄之助が言うと、規則的に本をめくる手が一瞬止まった。瞬き二つほどの間をおいて平静な声が返る。
「気のせいやないか」
「いや、絶対おかしいって。なんかぼんやりしてる事多いし、なんていうかな、空元気っぽいっつーか…」
「仕事はしとるし、寝込んどる訳でもないんやろ。人間たまには疲れることもあるねんで。犬っころにはわからんかもしれんがな」
「テメ、それ俺のことか!?」
 …ほら、上手いこと話をそらした。
 横で聞いていた辰之助は、しげしげと烝の顔を眺めた。これは彼なりの気遣いなのだろうか?本人がいない場所での詮索を止めようと言う。
「…なんや?」
「いや…」
 黙る辰之助を怪訝そうに見返して、烝は再び本に目を落とした。
 


 恋愛事には疎い兄弟、という評価はまったく正しいものだった、と烝は思う。とはいえ辰之助の視線には油断がならない。
(気ィ遣われたな、アレは)
 たぶん明後日の方向から…しかし焦点はきちんと合わせて、自分も、なまえも見られている。
(まさかデキとるなんて思いもよらんやろうし)
 自分でも驚くのだから仕方ない。
 まさかそんな行為を、仕事ではなくする日が来るとは思わなかった。しかもなまえと。もちろん嫌いな相手ではないし、女として見れていたけれど、それにしたって元々の関係が近すぎる。赤の他人と、というほうがまだ可能性を想像できた。
 こんな繋がりを持ってどうするんだと何度も自問した。いくらでも身は軽い方がいいというのに。
 奇妙なのはそこからで、そんな問題を抱えて尚、気が重くはならないのだった。早く切り捨てるべきだと思う一方で、会いたい会いたいと焦がれる自分が間違いなくいる。まったく矛盾する思考が共存していた。
「なまえ」
 小声で呼ぶと、なまえははっとしたように振り返って、烝の姿を認めてから破顔した。
「なんだ、山崎くん。仕事片付いたの?」
「着替えがてらの休憩や。まもなく戻る」
 近づいて額に手をあてると、なまえはきょとんと目を見開いた。
「…熱はないな」
「そうだね、わたしどこも具合悪くないもの」
「せやったら何なん」
「何の話?」
「鉄之助が心配しよったで。様子がおかしい空元気や言うて」
 鉄之助の名前が出たところで視線が泳いだ。あー、と呟いて、なまえはうつむく。
「それは申し訳ない。そうか、鉄ちゃんに言われたかー…」
「御託はええから結論言い。なんやねん」 
「いや、本当になんでも」
「俺のせいか」
 一段低めた声で問えば、苦笑めいた表情さえ消して、彼女はふるふると頭を振った。浮かぶのは当惑と、憂鬱そうな何か。
「違う。そういうのじゃ…ごめん、まわり誰もいないよね」
 気配を確認してうなずけば、なまえが重い口を開く、
「気にしていたのは、確かにこの間の事ではあるんだけど。何もなかったの。出来たかなあって思ったのが、勘違いだったみたいで」
 ごめんね、となまえは言った。
「謝るんはこっちのほうや。すまんかった。そないな心配のタネ作ってもうて」
「だから違うって」
 苛々と遮って、ばつが悪そうに目をそらす。烝はもう何がとは聞かなかった。口を引き結んでなまえはしばらく下を向いていたが、やがて決然と顔をあげた。
「ごめん。私も従軍するよ」
「…何謝るんかと思うたわ」
「だからああいうことしたんでしょう?ごめんね」
 言われた意味をとっさに理解できず、しかし感情はすとんと納得してしまった。あとで思考がおいついて、怒るべきかと自問したが、その時にはもう言葉を飛び越えて体が動いていた。
「…昼間だよ」
 当惑しているのか、冷静なのか、小声でなまえが呟いた。胸のあたりで声を聞きながら、せやからなんなん、と烝も答える。自分の脈が早くなっているのがわかる。焦りだ。見透かされたことで動揺している。けれどももう隠そうとは思わなかった。どうせ看破されるのだろうから。
「謝んな。腹立つわ」
「言行不一致」
「うるさい」
「本当はわたしもちょっとだけ夢みたの」
 軽口に紛れてしまいそうな口調でなまえは言った。
「子供できたら山崎くん、少しは後ろを振り返って生きてくれるかなって。馬鹿にしてるよね。子供に申し訳ないよ。そりゃこんなところ選ぶわけないわ」
「申し訳ないも何も、できてもおらん子ォが何選ぶ言うねん。大体、少しは振り返ってって何や。鉄砲玉と一緒にされたらかなわんわ」
 饒舌になりすぎだ。自戒したところで案の定、なまえは曖昧に笑って、ごめんね、と繰り返した。