5

 長い夢を見ていた。
 けして幸せではなかったのに、失えばその都度惜しくなる、そんな夢をいくつも見ていた。今も。


 辰之助はようやく目を閉じた。開き続けた目には様々なものが写ったはずだが、精神が拒めば何もわからないのだと実感する。かつて鉄之助(おとうと)が成長を止めてしまったように、今の自分は「辰之助(じぶん)」を無くそうとしている。時折目覚める瞬間に客観的に己を理解し、見たくもない現実とやらを受けとめ、せめてもの抵抗に暗闇へ逃げるのだ。
 今より前にススムが死んだ。
 先程か、昨日か、一年前か。わからない。
 死神の呼称がついてからというもの時間の感覚は曖昧だった。ただ、鉄之助から離れぬように、周囲の敵を感知し殲滅するように、目前の瞬間に集中し、その行為が堆積していく。泥だ。時折浮かびあがるちっぽけな「自分」が泡のように周囲の澱を撹拌し、また押し潰されて沈んでいく。
 ススムが死んだ。
 なまえを喪ってからも変わらず冷静に仲間を救いつづけた男は、傷も癒えぬまま、会津の戦場でたった一人敵軍へ向かい果てたらしかった。誰の命令でもない単独の夜襲をかけ、単身とは思えぬ数の敵を殺して、自身は襤褸巾のような骸を野晒しに潰えた。敵方の混乱のおかげで自軍は一晩ばかり攻撃を受けずに済んだから、忍びの本懐と言えるのかもしれない。
 しかし狂人となり利害や信義というものを捨てた辰之助にしてみると、あれはとにかく死に場所を探していたのだろうなあと思える。
 死神と呼ばれる己だからわかるのだ。
 己の芯たるものがなくなったら、善悪など毛ほどの重さもなくなる。なまえが消えてから彼を「山崎烝」たらしめていたのは「彼女が生きていればこうあった」という想像からくる判断であり、言うなればなまえの亡霊だった。
「生きて、どうしても壊れてしまったら、終わらせて」
 鉄之助から聞いたなまえの遺言は正しかった。医者として忍びとして十全に働けるよう努力を惜しまぬ一方で、ススムは足の傷が癒えるのを惜しんでいた。
「せめて遺髪くらいとっといたら良かったんかな。せやけどあいつをひとつも壊しとうなかったんや。傷(これ)やったら文字どおりの肌身離さずやて思うてんけど。もうあかんわ、俺」
 遠くを見ながら呟いていた横顔を思い出す。儚い亡霊さえ日に日にうすれていく恐怖はいかばかりだったろう。耐えきれず、完全になまえを無くしてしまう前に心中したのだ。
 幸せか、と聞く相手はいないから、辰之助は瞼を閉じて暗闇の中に彼らの姿を思い描く。
 …長い夢を見ていた。
 そうして今もまた一際深く、記憶が降り積もる海の底で、別の夢に堕ちていく。



「辰さん」

「辰之助」


 知った声に呼ばれて、辰之助はゆっくりと目を開いた。白い光に刺されて痛む。再び瞼を下ろすと、呆れたような言葉が聞こえた。
「だから徹夜しすぎって言ったのに!打ち込むものがあるのはいいけど、体を壊したら元も子もないんだってば。わかってます?起きれないでしょ。辰さん倒れたの、廊下で」
「放っとき。寝とる間に鉄之助が女子といちゃこらしよっても、そのうち子供こさえてきても、みーんな俺らには関係無い話やさかい」
 がばりと起き上がった辰之助は脳髄の揺れる感覚に呻いたがそれどころではない。すぐさま飛び出そうとするのを、なまえがつかんで止めた。
「いやいや辰さん落ち着いて。鉄っちゃんだから。沙夜ちゃんだから。あの人達そういうの無いから」
「そんなんわからんやろ。人間、そういうのは人の見てへんとこでやっとるもんやで」
「な、そっ、ぅうおおお鉄ぅー!」
「…烝くんのあほ。責任もってなんとかしてよ」
「兄ちゃんは許しません!結婚!するまでは!大人のおつきあいは駄目!」
「…やって。責任もって結婚するか、なまえ」
 全力で駆け出そうとした途端、足元を払われて辰之助は盛大に転がった。縁側を飛び越えて庭先に落下。びたんと額を打ち付けた痛みで、今聞いたばかりの何か重要な言葉を忘れた気がする。
「痛って…」
「ちゃんと目ェさめたな」
 縁側の上で腕を組んだ烝と、その奥でなぜだか真っ赤になって両頬をおさえているなまえ。


 どうしてだか、涙が出た。


「あ?なんやまだ寝ぼけとるんか」
「いや…あれ?なんでだろ」
 ごしごしと目尻を拭うと、心配そうな顔のなまえが手拭いを差し出した。
「辰さんごめんね、烝くん馬鹿だからこんなことして。もうちょっと休んでていいからね。痛いところがあったら烝くんを恨んでね。私もそうするから」
「…なまえお前…他に言うことないんか?」
「知らない。ばーか」
 呆れ顔の烝を子供のように罵ってなまえが背をむける。その耳が赤い。仔兎みたいな娘が走り去るのを見届けて、辰之助は口を開く。
「ススム」
「ん?」
「今、幸せか」
 一瞬驚きに目を見開いた烝は、少しの後に顔を背けて「正直、」と低く呟いた。
「夢かと思う時があるな。こないに幸せで、ほんまに俺の人生なんか、誰かと間違うとるんやないか、って。…せやけど」
 見慣れた友の横顔を、笑いもしない表情を。どこかで、いつかに、見たような気がした。
「夢なら夢でええねん。どっかで覚めても、寝ればまた見られるやろ。そんなことより一個でも多く『今』を忘れんようにせな、もったいないわ。…って何語らしてんねん」
 憮然とした顔が照れ隠しであること、それだけ今の話に本音が含まれていたことがわかるから、辰之助はやわらかく笑った。 
 どうしたことかわからない、今もまだ夢の名残に胸が苦しくてしかたないのだが、烝の言葉で何かが救われるのを感じていた。